第36話

 「真帆路さん、そろそろリハーサルのお時間です」

 「今いく」

 テレビ局の楽屋の扉が開かれ、若いADさんがキラと私を呼びに来た。大きな仕事、というのは音楽番組の生放送だ。キラは先月リリースしたシングルの曲を披露する予定だ。そして、そのバックバンドに私が出る。

 「ミカゲ、緊張しているの?」

 自分の一つ前のバンドがリハーサルしている様子を見ながらキラが尋ねてくる。私は頷く。肩にかけたギターがやけに重い。楽屋にあったお菓子もお弁当も喉を通らなかった。

 「こういうの、久しぶりだから……」

 誰かの前で演奏するなんてしばらくぶりだ。歌わなくていいのはまだ救いがあるのかもしれない。

 「ふふ、ミカゲ」

 「ん? ちょっ!?」

 緊張のせいか、キラが意地悪な顔をしていることに気づかなくて、私は無抵抗に抱きしめられてしまった。

 「しーっ。静かに。バレてしまうよ」

 耳の傍で囁かれた。しかし、こそばゆいやら恥ずかしいやらで静かになんてできなかった。なんとか抜け出そうと藻掻くけれど、体格差が違いすぎた。

 「こら」

 キラがじれったそうに耳にキスしてきた。ちょっと吸われる。急速に身体から力が抜けてしまった。周りのスタッフたちが一斉に目を背けた。隠し撮りとかされて週刊誌に売られないだろうか、と心配するべきだが、生憎そんな余裕は無かった。

 「キラ、ダメだって……みんな見てるからぁ……」

 「ふふふ」

 抱きしめられて色々と堪能された後、ようやく解放してもらった。自由になった途端に私はキラから距離を取った。

 「ば、バカっ。時と場所と状況を考えっ、てよ! せっかくしてもらったメイクも崩れちゃうし!」

 「考えたらシてもいいの?」

 「うるさいっ」

 あははは、とキラは腹を抱えて笑った。

 「リラックスさせてあげようかと思って。ミカゲの顔が強張っていたから」

 「だ、だとしても、やり方が……」

 「気持ちよさそうな顔をしていたくせに」

 うぐ、と私は熱くなった顔を俯けた。さんざん教え込まれてしまったから、心が拒否しても身体が……。

 「미카게는 성적인 매력이 있네요」

 「せ、せめて日本語で言って……」

 「ミカゲ、エロい」

 「やっぱ言わないで……」

 私は気まずさと好奇心の入り混じった視線から逃げるようにキラの影へ隠れた。

 「大丈夫だよ」

 キラが私の手に触れた。体温が分からない。人ではないようだ。

 「ミカゲはワタシだけを見ていればいい。普段通り、ね。ミカゲは上手なんだから」

 「……うん」

 「それに、この程度のステージで緊張されたら困る。ワタシたちは、もっともっと大きな舞台に立つんだから。そうでしょう?」

 キラが私の頭を撫でながら、言葉を染みこませるように語りかけてきた。いつのまにか緊張は無くなっていた。

 「真帆路キラさん、入られまーす!」

 強く手を引かれた。キラがステージの上を指差した。

 「ほら。ワタシたちが栄光へ向かう、その一歩だよ」

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