第10話

 夜がけていた。

 カーテンの隙間から見えた月の光が僅かに差し込んでいるが、部屋の明かりはそれだけだった。正確な時間はわからないけれど、銭湯から帰ってきて、数時間が経っている事は確実だ。

 俺は後ろから美羽みうを抱きかかえる様にして、睡魔と戦っていた。

 美羽の後ろ髪に顔を埋めて、その匂いを存分に嗅ぐ。さっきコンビニで買ったトラベル用のシャンプーなのだろうけど、それでもとても良い匂いがした。

 彼女のお腹に回した腕に少しだけ力を入れて、自分の方に引き寄せる。Tシャツ越しに、女の子特有の柔らかさを感じた。

 シングルベッドに二人で寝ると、どうしてもこうして密着せざるを得なくなる。もちろん、わざわざ腕なんて回さなくてもスペースはあるのだけれど、それはもう、ただバックハグをしたいだけの俺の欲求だった。


 ──美羽の体、ほんとに柔らかいなぁ。


 彼女は一般的な女性よりも華奢なはずだ。それでも、女の子はこんなに柔らかい。守ってあげたくなってしまう。

 それに、良い匂いがするし、抱き締めているだけでこっちまで幸せになってくる。


 ──カノジョって凄いよな。いや、美羽が凄いだけなのかな。


 彼女の匂いも、感触も、その全てを掬い取りたくなるほどに愛おしい。

 美羽は抱き枕として効果が高いのか、いつにも増して睡魔が襲ってきている様に感じる。このまま睡魔に任せればきっとこの心地良さから、一瞬で意識を刈り取られてしまうだろう。

 だが、この幸福感に満ちた時間を睡魔に明け渡してしまうのも、何だか癪だった。だから俺は必死に睡魔に抗って、彼女の存在をこうして全身で感じ取っているのだった。

 早く寝ないと明日が大変なのはわかっている。けれども、美羽がこうして泊りにくる機会なんて事は滅多にない。

 俺の方はいつでも歓迎だけれども、彼女の場合は親御さんの関係もある。次こうして泊りに来れるのは、いつになるかわからないのだ。そう思うと、易々と寝ていられないな、とも思うのだった。

 そう思ってもう一度彼女の髪の匂いを肺に送ろうと息を吸い込むと──くすっと美羽が笑った。


「もう、颯馬あさきさん。そんなに嗅がないでください。恥ずかしいです」


 そして、背を向けたままそう言うのだった。


「あ、れ……美羽、起きてたの?」

「あれだけ後ろで息をすーすー吸われたら、目も覚めてしまいます」

「あ。ごめん……」


 それは申し訳ない事をしてしまった。


「嘘です。ほんとはずっと起きていました」


 言ってから、美羽はもぞもぞと動いて、俺の方に体を向け直した。

 正面になって向き合うと、少し照れ臭い。


「すごく幸せなんですけど、どきどきしてしまって……それで、眠りたくなくて」


 そう思ってたら寝れなくなりました、と美羽。

 彼女も同じ事を考えていた様だった。何だかそれはそれで嬉しい。


「え、じゃあ……」

「はい。颯馬さんがずっと髪の匂いを嗅いでいたのも、知ってます」


 何てこった。むしろそっちの方が死ぬほど恥ずかしかった。

 月明りでしか顔が見えないけれど、美羽が悪戯っぽく笑っているのだけはわかった。


「私、そんなにいい匂いしますか?」

「うん。世界で一番良い匂いする」

「えー? 市販のシャンプーですよ?」

「多分、あんまり関係ないんじゃないかな」


 何となくそんな気がした。

 きっと美羽だから良い匂いがするのだと思う。


「それを言うなら、颯馬さんだって良い匂いがします」

「え?」


 美羽は俺の胸に顔を埋めて、息をすーっと吸った。想った以上にくすぐったかった。


「俺、男なんだけど……良い匂いなの?」

「はい、良い匂いです。私の大好きな匂いですから」


 言って、彼女はもう一度深呼吸する様にして、息を吸い込んだ。


「ばか、くすぐったいって」

「私だって、くすぐったい思いをたくさんさせられましたから。なので、仕返しです」


 そうだった。さっきまで散々うなじに顔を埋めて匂いを嗅ぎまくっていたのだった。

 そして、お互い小さく笑みを交わす。


「二人でこんな事をずっとしていたら、朝になっちゃいますね」

「ほんとだよ。さすがに泊りにきて遅刻はまずいだろ」

「それもそうですね。では……そろそろ寝ましょうか?」


 俺は美羽の質問に答えず、ただ彼女の顔をじっと見ていた。美羽も同じく、俺の顔をじっと見つめている。

 そして、お互いにゆっくりと顔を近づけた。今日何度目かの口付けを、二度、三度と繰り返していく。夜が深まるまで、何度も何度も繰り返していって──

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