第8話
緊張した面持ちで、
「えっと、はい……彼のおうちです。その、お父さんには……ありがとうございます」
美羽の口から、あっさりと俺のところにいるという言葉が出てきて驚いた。
それは大丈夫なのか?
「はい。明日はそのまま学校に行きます。え、下着⁉ そ、それは後でコンビニで買いますからッ」
かと思えば、顔を赤くして何か言っている。
下着とか言わなかったか、今。その単語で一気にどきんと胸が高鳴る。
そして、美羽は真っ赤な顔でこっちを見て、『あっち向いててください!』と口だけ動かした。どうやら顔を赤くしているところを見られたくないらしい。
俺は黙って従い、彼女に背中を向けた。
「はい、わかってます。明日は早く帰りますから。うん……それもわかってますってば。あの、もう切りますよ? おやすみなさい、お母さん」
電話を切った後、美羽は大きく深呼吸をしてから、もう一度溜め息を吐いた。
ひどく緊張していた様子だった。お泊りの電話だけは、慣れないらしい。
「てか大丈夫なの?」
「え、何がですか?」
美羽が首を傾げた。
「いや、今普通に俺の家に泊るって言ってたから……」
美羽がうちに泊まりにくるのは、今日が初めてではない。
前回は春休みの時に泊っていた。その時は友達の家に泊ると嘘を吐いていたのだけれど、今『彼の家』とはっきり言っていて、驚いたのだ。
「ああ、はい。それは大丈夫です。前に泊めてもらった時に、お母さんから『彼氏でしょ』とバレてしまいまして……それから、お母さんには何でも話すようにしてるんです」
お父さんにはまだ内緒ですが、と美羽は困った顔で付け足した。
美羽は母親に彼氏ができた事を報告していなかったのだが、バレンタインの時点で彼氏の存在には気付いていたらしい。挙動が普段と異なっている上に、帰ってきたら顔がニヤついていて、その上顔つきが少し大人びていたので、すぐに気付いたのだと言う。同じ女だからこそ、だろうか。
それで、春休みに入るなり友達の家にお泊りだと言って外泊したので、問い詰められたのだ。
ただ、それも叱る様な内容ではなくて、『私にまで嘘吐いてたら、いざという時にお父さんの追及を上手い事誤魔化してあげれないでしょ?』というものだった。
どうやらお母さんも若い時に外泊する時は、母親──美羽のお祖母ちゃん──と協定を結んでいたようだ。母娘の絆は強い。
「お母さんは味方なので、安心していいですよっ」
美羽が俺を安心させる為か、優しく微笑んだ。
お母さんが味方なら、隠さなければいけないお父さんは敵なのだろうか? そして、それでいうと、お父さんから真っ先にぶっ殺されてしまうのは俺なのではないだろうか?
考えただけで恐ろしい。
「心配ですか?」
美羽が悪戯げに俺を覗き込んだ。
「まあ、そりゃあな……」
大丈夫なのだろうかと心配になるし、お父さんにも申し訳ない事をしている気になってしまう。
そしてお父さんに申し訳なく想う──即ち、可哀想だなと思ってしまう──のは、将来の自分を想像してしまうからかもしれない。
例えば俺がこのまま美羽と一緒になって、それでいて娘ができた時に、母娘で協定を結ばれて、俺だけ仲間外れにされてしまうとか……この親子を見ていると、それも十分に有り得る気がしてきたのだ。
「ありがとうございます。でも、本当に心配しないでください」
美羽が俺の手を取って、ぎゅっと握ってくる。
「私、今までずーっといい子でいました。お父さんとお母さんの言いつけも守って、ずっと二人の理想の子供でいれるように頑張ってきましたから……こういう時くらい私の好きにさせてもらわないと、困ります」
眉根を寄せて、困った様に彼女は笑った。
なるほど、とこの時に少し美羽の気持ちがわかった気がした。
子供に真面目さを求め過ぎると、その反動でいつか大きな反旗を翻されるのだ。それは自分にも身に覚えがあった。
俺も小中と真面目に生きてきて、初めて反旗を翻したのが、昨年だった。即ち、俺は親に初めて大きく反抗して、ここでひとり暮らしをするに至ったのである。
美羽は特に真面目で、それこそ欠点が見つからないくらい良い子だ。ただ、それは色んなものを抑圧してきたからこそ、欠点がない優等生な
それなら、普段からちょっとガス抜きをさせていて、反旗を翻す大義名分、みたいなものを子には与えない様にした方が良いのかもしれない。将来役に立てよう。
「何か俺が美羽を不良少女にしてるみたいだな」
「いえ、それは違います」
美羽が首を横に振って、俺の言葉を否定した。
「私は元々こういう人間だったんだと思います。それをやるだけの理由が今までなかったからしなかっただけで」
「その理由が、俺なの?」
「はい。その理由が
美羽は恥ずかしそうに笑って言った。
「だって……初めて人を好きになって、恥ずかしくて死んじゃいそうでしたけど、それでも気持ちは伝えたいって思って……私、自分でもびっくりしたんです。こんなにも私って能動的になれるんだって」
美羽は俺から見ていても、確かに基本的に受け身なイメージだった。いつもにこにこして人に気遣って、嫌な事でも頼まれたら断れないような、そんなタイプの女の子だと思っていた。
だから、いきなり告白してきた時は、何かの罰ゲームでやらされてるのかと疑った程だったのだ。
「颯馬さんは、受動的で言われるがままに生きてきた私に、初めて自分から動く事を教えてくれた人なんですよ?」
「……そっか。なんか、照れ臭いな。俺、何もしてないのに」
「そんなことありません。颯馬さんが気付いてないだけです」
「そうなの?」
美羽は「はい」と頷いてから、悪戯っぽく笑った。
もしかすると、彼女はそんな受け身な自分を、どこかで毛嫌いしていたのかもしれない。毛嫌いとまでは言わないけれど、能動的に動ける様になりたいと願っていた。そんなところではないだろうか。
俺が美羽にそうさせるに当たって、一体何をしたのか全く記憶にないのだけれど……それでも、彼女が理想の自分に近づける為の一歩を進む切っ掛けになれたのなら、それは彼氏としては嬉しいなと思うのだった。
──あっ。そっか。俺から見ていた美羽は、
優しくて気が利いて、その上に可愛くて、成績も優秀で、料理もできて、良い娘で。非の付け所なんてないとさっき思っていたが、彼女はどこか、それを演じていた部分もあるのだ。
それであれば、その天谷美羽は天谷美羽にとっての完璧ではない。
そう思うと、俺は思わず笑みが漏れた。嬉しかったのだ。
「どうかしましたか?」
「いや、皆が知らない美羽の一面が知れて、嬉しいなって」
「……私、颯馬さんの前では誰にも見せてないところをかなり見せているつもりなのですが」
「そりゃ役得だ」
言って、二人で笑い合ってから、一緒に食器を洗った。
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