第8話 忘れられた夢

次の町へ向かう道すがら、ケンジはふと立ち寄った小さな酒場で、思いがけない再会を果たすことになる。店内は薄暗く、古びた木製のテーブルと椅子が並んでおり、客はまばらだった。ケンジがカウンターに座り、ギターを傍らに置いた時、カウンターの奥から聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「ケンジ、か?」


声の主に顔を向けると、そこにはケンジがかつての音楽仲間であるタクが座っていた。タクはかつてケンジと同じように音楽に夢中になり、二人で一緒に演奏していた仲だった。だが、数年前に会ったきり、その後は音信不通になっていた。


「タクさん…久しぶりですね」


ケンジは驚きながらも懐かしさが込み上げ、タクに声をかけた。しかし、その姿は以前の彼とはどこか違っていた。かつて夢に向かって情熱を燃やしていたタクは、今ではすっかり疲れ切った顔をしていた。肩を落とし、グラスの酒をじっと見つめている。


「お前、まだ音楽続けてたんだな」


タクは淡々とした口調でそう言うと、苦笑いを浮かべた。「俺は、もう辞めちまったよ。あんなに夢中だったのにな…」


その言葉に、ケンジは言葉を失った。タクはいつも前向きで、将来は大きなステージに立つんだと言っていた。しかし、その夢を途中で諦めたというのだ。タクが音楽を辞めた理由が気になったが、ケンジはすぐには聞けず、彼の隣に静かに腰を下ろした。


「何があったんですか?」

しばらくの沈黙の後、ケンジがそっと尋ねた。


「夢ってのは、簡単に叶うもんじゃないんだよ」


タクはそう言ってグラスを傾けた。彼の声には、深い疲れと諦めがにじんでいた。ケンジは彼の横顔を見つめながら、かつてのタクの情熱的な姿を思い出していた。あの頃、二人は若く、未来への希望に満ちていた。ギターを抱え、いつか自分たちの音楽が大きな舞台に届くことを信じていた。


「俺も、必死に頑張ってたんだよ。でもな、どんなに頑張っても上手くいかないことがある。オーディションに落ち続けて、自分の音楽が誰にも届かないって思った瞬間、もう無理だって気づいたんだ」


タクの言葉は、ケンジの心に重く響いた。音楽を続けることがどれほど厳しいかを、彼自身もこの旅の中で感じていた。タクのように夢を諦める瞬間が訪れるかもしれないという不安も、ケンジの心の片隅にあった。


「それでも、やっぱり音楽が好きなんだろ?」


ケンジは、タクの目をまっすぐに見て尋ねた。タクは少し驚いたようにケンジを見返し、やがて微かに微笑んだ。


「そうだな…でも、もう戻れないよ」


その微笑みは、どこか寂しげで、もう過去の夢に戻れないことを悟っている表情だった。タクの心には、夢があった場所に深い傷が残っているのだとケンジは感じた。


「俺も、今は流しをやってるんです」


ケンジは自分の旅のことをタクに話し始めた。大きなステージに立つことはまだ夢見ていないが、音楽を通じて人々と繋がり、自分の音楽を届けているということを伝えた。


「流し、か。いいな、自由で」


タクは少し羨ましそうにそう呟いた。ケンジはその言葉に、何かを感じ取った。夢を追いかけることが全てではない。自分の音楽が誰かに届く瞬間、それだけで十分かもしれない。


「タクさん、音楽は辞めたかもしれないけど、まだ弾けるでしょ? 一緒に一曲やりませんか?」


ケンジがギターを差し出すと、タクは一瞬ためらったが、やがてそのギターを受け取った。彼の手が弦に触れると、かつての感覚が蘇るように少しぎこちなく音を鳴らし始めた。


「懐かしいな…」


タクの指がギターの弦を弾き始め、二人は昔一緒に演奏していた曲を思い出しながらゆっくりと奏でた。音楽が流れ出すと、店内の空気が変わり、ケンジもタクもその音に包まれた。


タクの顔にかすかな笑みが戻ってきた。その瞬間、彼の心の中に閉ざされていた扉が少しだけ開いたように感じた。音楽は忘れられた夢を蘇らせ、再びその力を二人に示してくれた。


「やっぱり、音楽はいいもんだな」


演奏が終わると、タクは深く息をついて呟いた。ケンジはその言葉に、静かに頷いた。音楽は、たとえ夢が破れても、決して消え去るものではない。それはいつでも人の心に残り、必要な時にまた響き始めるものだ。


「ありがとうな、ケンジ。お前とまたこうして音楽をやれるとは思わなかったよ」


タクはギターをケンジに返し、立ち上がった。「俺は、もう少しこの町でのんびりするつもりだ。でも、お前のようにまた音楽を楽しむ気持ちを思い出させてくれたこと、感謝してるよ」


ケンジは彼に微笑み返し、別れの言葉を告げた。タクは店を出ていき、その背中はかつての情熱を取り戻したかのようだった。


店の外に出ると、ケンジは星空を見上げた。タクのように、音楽を諦める人もいる。しかし、夢を持ち続ける限り、音楽はいつでも心の中にある。たとえその道が険しくても、自分の音楽を信じて歩み続けることが大切だ。


「俺も、この道を進もう」


ケンジはそう心に誓い、再び旅路を歩き出した。タクとの再会は、彼に音楽を続ける覚悟を新たにさせた。どこまで行けるかはわからないが、音楽があればケンジはどこへでも行ける。そう信じながら、彼は静かに次の町へと向かっていった。


この第8話では、ケンジがかつての音楽仲間であるタクと再会し、夢を諦めた彼との対話を通じて、音楽を続けることの意味を再確認する姿が描かれています。夢が破れたタクの姿に触れつつ、ケンジは自分自身の音楽への決意を強めていく様子が描かれています。

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