3 みしる

 油断していたわけではないが、翌日もおなじ頃に、猫が現れた。

 

 シートの向かいには、すでに酔っぱらっている老人がぐったりしており、その頭上に出現した感じで、車内は西陽のきつね色だった。


「またおぬしか」


 こっちのせりふだが。


「ねこについてのりかいは深まったろうね」


 え……。


「ははん。たいまんなり」


 ギクッとして、肩甲骨が張ってくる。

 それは猫に限ったことでもない評価なのだ。


「もうすこし、りかいが必要よな――」


 猫はみじかい両手をおなかのまえでくっつける。

 しばらくみて気づいたが、腕組みのジェスチャーなのだ。


「干支を存じておろう?」


「え……干支? ね、うし、とら――のやつですか?」


「ほかにあるのかしらんが」


 猫は眉をきりっとする。


「それにねこが入っていないのはなんでか?」


 ミニクイズがはじまった。

 しかも、うっすら記憶にあるかないかの瀬戸際のネタだった。厄介である。


「うろ憶えで恐縮ですが、ねずみに騙されたとか……」


 一瞬、牙をむいた。


「えっと、トラのほうが上位だったとか――」


 猫にらみが発動した。蘆雪の虎図みたいな顔だ。


 武史は眉間にひとさし指をそえて、ほかの説を脳のかたすみからひねりだす。


「ああ、お釈迦さまの亡くなるきっかけをつくったとか、なんとか……」


 どうやら、猫のきげんをたいそう損ねてしまったらしく、猫はしばらくみじかい足をふにふに動かしていた。


 そして、ふてくされた顔で、つばを吐こうとして「ぺっ」としたものの、つばはなく、ただ「ぺっ」とちいさく鳴いただけになった。ぺっ。


「ねずみに騙される……? ねこはねずみの讒言になどまどわされぬ。そもそも、それでいちばんのりじゃ、ねずみのほうが釈迦に叱られないかね。叱られろ」


「はぁ」


「トラのほうが上位? まぁ、トラは竹ばの友ゆえ、偉いのはわからんでもないが、考えてもみよ、トラはネコ科なり。にんげんの決めたるーるでさえも」


「はぁ」


「お釈迦さまがしぬきっかけ? それこそいいがかり。しなせてしまうぐらいのそんざいなら、むしろ、いちばんのりさせておくのが一興なり」


「はぁ」


「うそうそ、かわうそならぬおおうそなり」


 ねこは目を見開く。


「それらのうそがみちびくこたえは、おのずとひとつ――これすなわち、ねこが釈迦なり。すべてのはじまりにほかならぬ」


「……ほんとうに?」


「しらぬ。じぶんで調べよ」


 ねこはひげをなでるように洗う。


「そもそも、ねこが干支に入っとる国だってあるのだ。タイとかな。タイはよくわかっているなぁ。シャムねこなんつって、そりゃもうだいじにしておる」


 だんだん、話がどうでもよくなってきた。

 そもそも、トワイライトぞおんだのまねまねだの、ぜんぶまぼろしかもしれない。


「わからぬやつ。おぼえておけ。真のりかいは、みためとがいねんの克服にある」


 諭されてしまった。


 武史は悩む。

 だいたいにおいて、最近は悩ましい日々であるのに。


 猫はふふんと鼻の穴をもにょもにょする。


「存じておるよ。おぬしのことは、だいたいが」


「え?」


「はろーわーく通いで、かのじょにふられそうで、やる気もでない」


 ゲゲっと衝撃をうけ、2トンくらいの重みで両肩が床まで落ちて、そのままずぶずぶと埋没するかのような気分になる。


「そんなことまで……」


「うむ、ときどきおぬしが、子どもがうんちのとき全力で気ばってるみたいなうめき声をあげることもな」


 武史は降参する。


「お、お見通しなんですね……」


「まぁでも、これは異じげんねこの不当な内政干渉というもの。ねこのふところがわかればよい。つまるところ、偉大なねこは、みたときにもう知っているのである――」


「はぁ……」


 猫がどうこうより、武史はたしかに悩ましい。


 武史は23歳になるが、あまりぱっとしない大学をでて、新卒でつとめたエンジニアの会社を、先月辞めてしまった。


 べつだん、息苦しい人間関係があったわけでも、処遇に不満があったわけでもないところが問題で、ある日突然、やる気のスイッチがオフになったのだ。

 主に測量や道路整備に関するデータ管理に従事していたが、仕事内容にケチがあったわけでもない。


 ふと窓のそとをながめたら、黒い大きな鳥の影がふっと通り過ぎた――そんな感じだった。


 辞表をまえに社長や同僚は困惑し、慰留に努めてくれて、いまにして思えばたいへんな温情だと思えたが、なぜかそのとき武史が抱えていた混沌は深かったのである。


 なぜそうだったか説明できないことが、いまの武史を悩ませていた。

 そして、今後も説明できそうにないことも、いまの武史を悩ませているのだった。

 

 それは説明がつかなければ、彼女との関係も切れそうにあるというジレンマに到達する。


 ぱっとしない大学時代の唯一の収穫だった彼女の存在は、社会と自分とをつなぐ細い糸になっている。

 

 その糸は、武史の心情いかんで太くなったり細くなったりするものの、こればっかりはまぼろしではない。


 彼女に相談しないまま退社してしまったせいで、その糸がいま、かぎりなく細く、頼りなくなっているのである。


 仕事を辞めたという報告以来、彼女の態度は少し変わっていた。

 

 どう変わったかは言説しづらいのだが、どことなく距離ができたというか、みえない壁がうまれた。

 ところどころ隙間のあるレンガの壁。来月、彼女の誕生日がくるが、その話題さえ切りだしづらい感じ。


 べつだん、即座にふられることはなく、「なるべく早く、つぎがみつかったらいいね」と励ましてもらえたが、壁のすきまからみえる彼女の目は、ほんの少しだけ他人の目になった。


 ふと思い悩み、最後にみた彼女の目を回想していると、そこに「どうした?」と細めた猫目が割りこんできた。


 猫は折り紙つきの親しみを顔に浮かべていたが、「時間なり――」と、急に聞こえた踏みきりを通過する音とともに消えてしまった。

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