カラスアゲハと彼女

槇瀬りいこ

第1話

ㅤ入社して二週間が経った春の日の事。

ㅤ職場の敷地内に、雰囲気の良い裏庭があるのを発見した。


 芝生の上に木製のベンチが置いてあり、立ち並ぶ桜の木は鮮やかな緑の葉をつけて風にさわさわと揺れている。フェンスの向こう側には雑木林が広がり、マイナスイオンが満ち溢れていそうな癒しの場所だ。


 視界に入る色はほとんどが緑色。

ㅤ見上げれば青の空に僅かな雲がのんびりと流れている。


 ここで休憩したなら、慣れない仕事で疲れた身体と精神が回復できそうだ。

 

 俺は木製のベンチに腰掛けると、コンビニで買った惣菜パンを一気に食べ、缶コーヒーで流し込んだ。


 雑木林からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。温かで優しく吹く風が、午前の疲れを全て持って行ってくれそうだ。


 あまりの心地良さに、徐々に意識が遠のいていった……。


「バッ!!」という物凄い破裂音が遠くから聞こえた気がして、浅い眠りから目覚めた。


 いつの間にか隣のベンチに座っていた女性社員が、キョトンとして俺を見ている。


 山下先輩だった。


「佐々木くん、今のは何かしら? 私、風下にいるんだけど」


 しばらく俺たちは見つめ合った。

 

「あ〜あ。やってくれたわね。せっかくあの子と友達になれたってのに。驚いて逃げちゃったじゃないの」

 

 うるさいわよあなたのオナラ。と、山下先輩はムッとして呟いた。


 今の破裂音は、俺が無意識にやってしまったオナラだと自覚し、恥ずかしくて全身が熱くなった。


 そのくせ冷や汗だ。


 それは山下先輩に対する恐怖心から来るものだ。

 

 彼女は俺の3つ上の先輩で、部署が同じの教育係だ。仕事中はとても厳しく、少しの冗談でも言おうものなら冷たい目で流される。皆が楽しげに笑う中で、彼女だけは少しもニコリとしない。正直可愛げのない女性社員だと思っていた。


 色白で目鼻立ちは整っていて目を引くのは確かだけど、俺は人形のように心を見せない山下先輩が苦手だった。


 そんな彼女の傍で、あろうことか寝ながらオナラをしてしまったのだ。


 これは冷や汗ものの始末書ものだ。

ㅤ昨日大学イモを食べ過ぎたのがいけなかったと後悔する。


「俺、今、やっちゃいましたか?」

 

 ごめんなさい。と謝ると、彼女は不機嫌そうに尖らせていた唇を緩めた。

 

「人って素晴らしいわね。口以外でそんな元気な音が奏でられるんだもの」

 

 平気よ。と、赤面する俺から目を逸らし、青い空を見上げた。


 口以外で音が奏でられるという表現に笑えてしまい、羞恥心と恐怖心は吹き飛んだ。


 彼女の視線の先を辿る。

 

 そこには大きな黒い蝶が一匹、ふわふわと宙を舞い、まるで遊んでいるかのように飛んでいる。そのうち、ベンチに座る彼女に「遊ぼ」と言わんばかりにちょっかいを出してきた。

 

 俺の周りにいる女友達は虫嫌いが多く、大抵そういった飛ぶ生き物に対し大声で叫んで騒ぎまくる。


 ちょっとした虫を発見したなら、

「捕まえて捨ててきて~」と頼まれるから、俺の中では女性は虫嫌いだという固定観念があった。


 なのに山下先輩は違った。


 大きな黒い蝶に、まるで文鳥に指を差し出して止まらせるかのような仕草をし、

 

「おいで」

 

 と、優しく微笑んだのだ。


 そんな優しい顔、仕事中では絶対に見られない。

イメージでは、蚊をこれでもかと言うほどに木端微塵にして潰しそうだから、とても意外だった。


 黒い蝶と彼女は、目と目を合わせてお互いに心が通じているかのようだった。その光景は夢でも見ているかのように不思議なものだった。


 大きな黒い蝶はふわふわと舞いながら、彼女の指先に、そっと止まり落ち着いた。

 

「マジかよ……」

 

 思わず俺は呟いた。


 彼女は指に蜜でも塗りたくっているのだろうか。そうでもしない限り、蝶が人間の指に止まるなんて珍しい話だ。

 

「きれ~い…!」

 

 彼女はうっとりとして、指先に止まる小鳥サイズの黒い蝶を見つめた。


 近くで羽を見ると、黒色の中に深い青が見える。確かに美しい。黒い蝶は、その美しい姿を見せつけるかのように大きく羽を広げた。

 

「こんなデカい蝶、初めてみましたよ」

 

「カラスアゲハっていうのよ」

 

 珍しく彼女は俺に向かって微笑んだ。


 黒髪のロングヘアの彼女とそれはセットで絵になるな。と、見とれてしまった。


 仕事中には見られない表情を見せられて、俺は今、この空間が職場の裏庭だと言うことを忘れてしまったほどだ。

 

「友達になれたみたいで良かったですね」

 

 黒い蝶を驚かせないようにと静かに呟いた。


 しばらくそれは彼女の指で休憩をしてから、空へと舞ってどこかへと行ってしまった。

 

 その不思議な光景は脳裏に焼き付いて、仕事中であっても思い出された。

 俺はその日から、彼女の存在を興味深く思い、彼女を観察したい欲が生まれてしまった。


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