2 厭われた森

 もちろん、その癖の発覚は恐れている。

 守るものなど、これといって持ちあわせていないのだが、私ほど世間体を気にする人物もいないだろう。


 初期の頃、あまり分け入らない林道のわきで、半裸の状態のときに、親子連れのハイカーが通りかかる声が思いのほか近くで聞こえ、思わず藪のなかに跳びこみ、全身切り傷だらけになったこともある。

 低木の雑草にはときどき、なぜそんなに鋭利なものがあるのかと辟易させられるものが多い。

 

 そもそも、全裸になることで、だれかの迷惑になるのは厭なのである。

 ゆえに、私はこの趣味を、人と共有したいとは思わない。

 望んだところで、大半が嫌悪感を示すことは明白だろう。


 私はざわつく森の葉ずれのなかで、狂騒的な風を頭上に聞きながら、しばらくのあいだ陶酔し、やがていそいそと着衣し、森(と高原)を去るのである。


 春と秋は比較的長めに滞在できるが、夏は虫のせいで没入感がさがってしまう。

 冬は寒さで高原をおとずれることがそもそもむずかしい。


 酔いしれているとき、私はまるで全身にガムシロップを塗りたくられているような感覚になる。

 気持ちわるさと背徳感が、ないまぜになって快感となるのだ。


 なぜそんな感覚に惹かれるのか――それは異常なことなのか、私はそんな漠然とした思考のうちに、最近は植物について踏みこむようになった。


 それは、エンパシーを抱くといった心情である。

 私の行動を光合成になぞらえてみたり、葉緑素と血液の構造上の類似性を知り、ずっと深いところでつながっているような感覚に身ぶるいしたりするのだ。 

 植物が好きというより、植物に共感しているのだろう。


 もっとも、論理性には頓着しない。

 論理的とはすなわち、冷めているだけであり、私は恋するような情熱をもって、そこに取りくんでいる意識をもっていたからだ。

 

 しかし、ブナ林で魅惑のひとときを過ごしたのち、私は道に迷ってしまった。

 

 看板を読まず、地理もたいしてあたまに入れず、地図ももたず、風景だけを頼りにもどっていたら、記憶が混濁し、ずいぶん奥まった土地にいることがわかり、看板をみつけてもどちらも登山道――しかも集落名では見当もつかず、進めど標高がさがる気配がまるでなく、次第に疲弊してきた。


 太陽の位置や遠くの山嶺の形状で、かろうじて方位はわかる程度である。


 いずれ、手の入った登山道で遭難するわけもないので、いたずらにパニックを起こしたりはしないが、日和のよい秋の高原で、丘からの眺望に私以外だれもいないのはふしぎなことだった。


 しばらく歩いたところで分かれ道に立て看板があった。

 確認しようとしたとき、ふいに背後から話しかけられた。


「こんなところになんの要件だい?」


 ふりかえると、老年の女性だった。

 焦げ茶色の花柄のジャケットすがたで、露出はなく、あたまにタオルを巻き、手にはふくろと短めの草刈り鎌をもっている。


 内心とても驚いたが、見落としていただけなのだろうし、そもそも山菜採りなら、私とおなじように森から急にでてきたことも考えられるので、私は営業用の顔でにっこりする。


「道に迷いまして……もう帰ろうと思っているところなんですが――」


 私は押し花が趣味で、とつづけようとしたが、老婆は片目を大きくしてうなずき、さえぎってきた。


「なら、さっさと帰りなよ。山を降りるならあっちだ――」


 老婆は分かれ道の一方をゆびさす。


 私がつられてみると、「あっちはやめときなよ」と老婆がかさねた。

 ふりかえると、鎌でもう一方を差し示している。


 やめときなよ、といわれると気になるのが人の常だろう。

 顔つきでそれがわかったのか、老婆は眉間にしわをよせる。


「べつにたいしたものはないけど、私有地だしね。人の手が入ってないから鬱蒼としているところもある」


「熊でも出ますか?」


 私は笑ってみる。

 老婆はくすりともしない。


「熊なんかどこにでも出る。あっちの森には、もともと、このあたりに住んでいる人たちも近寄らないってだけさ。慣れ親しんでないところだと事故も多い。その昔は鬼にさらわれるなんて、ばあさんたちは言い伝えていたがね」


 ばあさんがいうばあさんだから、なかなかの昔話だ。

 どこにでもある俗伝のたぐいだろう。


「ときどき、観光客なんかが迷いこんで、勝手に行方不明になって消防が呼びだされるときもあるようだしな」


「そうですか――」


 私はより明るい顔でふりかえったが、老婆はすでに山道をだいぶさきまで歩いていた。

 

 私は謝辞を飲みこんで、その背中がちいさくなるのを見守ってから、思わずため息をついた。


 当然の帰結だが、私は好奇心に駆られ、もう一方の道に向かったのである。

 

 そのとき、晴れた空にもかかわらず、冷たいような、それでいて生あたたかくもあるような、なんともいえない西風がその道をたどって吹いてきていた。

 西風というのは始まりのようにも、終わりのようにも感じられるものだ。


 制止をふりきったせいもあり、私はなんとない疚しさをおぼえていたが、しばらく歩いていたらそれもどうでもよくなった。

 

 いくぶん荒れた山道だったものの、充分、人が通行できる(場合によっては自動車だって可能な)ほどの道幅もあり、鼻さきをかすめるようにアサギマダラが飛んできたりして、さほど労苦なく歩み進めることができた。


 それでも徐々に、広葉樹の背丈が高くなってきた。

 

 どこからが私有地(しかもだれのもの)なのかはわからないし、それらしい標識等もとくになかったが、なんとなく湿度はあがった気がする。


 運動不足が祟って、鼓動も高鳴ってきた。

 顔が火照る。

 ふいに頭上で野鳥が飛び立ったりして、びくっとしたりした。


 まだ紅葉がそれほどではないため、生い茂る葉っぱで遮蔽されて、視界が暗くなってきた。


 森のうえをたまに流れる風がひゅんひゅんとうなり、本来ならここちよいはずの枝葉の音が、ただの喧噪にも聞こえる。


 腕時計をみると、午後の4時半過ぎだった。

 もうすぐ日が落ちる……。


 ふつうなら引き返すところかもしれない。

 老婆に諭されなくとも、なんとなく不穏なことは、この風土を体感すればわかる。


 しかし、なぜか私は歩みをとめなかった。

 まるで原始の本能がそうさせるかのように、私は一歩一歩、ときどきみずからの足音がたてる乾いた音に驚きながら進んでいった――。

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