星に堕ち天ノ川へ流れる

マスク3枚重ね

星へと落ちる天ノ川岸へ流れる

ロープが天井からぶら下がり揺れている。カーテンは締め切られ、窓は何週間も開けられる事はなく空気は淀んでいる。テレビはつけっぱなしで、暗い部屋に大して面白くも無い映像の光が辺りを照らす。カップ麺の容器が散乱し、飲み物のペットボトルや缶が辺りに転がっている。そんな中に埋もれるように男は床に座り込み、丸い輪っかが出来ているロープを酒の入った缶を口に運びながら眺めている。エアコンの風を受けロープが手招きをする様に揺れる。


「とうとう酒の美味さがわからなかったな…」


男は空になった酒の入っていた缶をゴミの山の中に投げ捨てると、積み上げられていたジュースの缶がいくつか倒れる。死んだ父が酒を飲みながらよく言っていた。


「お前も大人になったら酒の美味さがわかるさ」


随分昔の事を思い出すなと思いながら男は立ち上がると身体がふらつく。たかだか350ml缶の酒でここまで酔えるかと少し驚く。だが気分は悪くない。今ならイける気がする。

男はゴミの入ったビニール袋を椅子からどかして天井からぶら下がるロープの下に置き、その上に立ち上がる。多少ふらつくが問題なさそうだ。ロープの輪っかがちょうど首の位置にくる。震える手で輪っかを首に掛けロープを引く。するとロープが軽く首にくい込み、多少の息苦しさを感じ脈が早くなる。椅子の上から眺める自分の部屋が広くなったような気がした。どこまでも続く監獄、この閉塞感から抜け出す為の最後の手段、足元の椅子を蹴るだけだ。足元はたかだか数十センチの高さだった。しかし、これは高層ビルの屋上の淵に立つ行為と何ら変わらない。心臓がどんどん大きく脈を打ち始める。逃げ出したくなる男は目を固く瞑り、早く鋭い呼吸を繰り返す。


「ふぅっ!ふぅっ!ふぅっっ!!ッ……!!」


男は意を決して椅子を思い切り蹴る。今まで30年生きてきたこの星の重力に身体を優しく引かれる。しかし、首にかかるロープがそれを拒もうと首に強く食い込む。優しい星の重力と現実に引き止めるロープが男の身体を引っ張り合う。ブチリ、ブチリと音がする。意識がどんどんと千切れていく。そして『ブツッ…!』限界の最後の無情な音が確かに聞こえた気がした。男の身体と意識が完全に切り離されて、意識は静かに星の重力に抱かれるように堕ちていく。部屋から堕ちて、どんどんと下へと堕ちて地面の中へと更に堕ちて行く。なんとも居心地良く、高揚感すら感じる。窮屈だった閉塞感はもう何も感じない。自分自身が星の一部になっていくようなそんな全能感。しばらくそんな高揚を感じながら男は星に堕ちていた。すると地面の中に堕ちてからずっと真っ暗だった景色に変化が訪れる。男は光に包まれる。太陽の光よりも明るく温かいこの星の光。この一部になるのだと男は直感する。優しく引かれて光は男の意識を飲み込んだ。




男は唐突に目を覚ます。


「おはよう。目が覚めたね」


男は視線を巡らせる。辺りは真っ白で何も見えない。だが確かに誰かいる。


「私の声が聞こえるかい?」


「き…君は…?」


声の主は見当たらないが目の前から声が聞こえている。


「私は…そうだね。見届け人…かな?」


男は立ち上がる。周りは明るいがモヤがかかったように不鮮明だった。自分の手を見てみると透き通っている様に見える。


「俺は…ちゃんと死ねたんだな…」


「ええ」


呆気ない返事に男は文句を言いたくなるが、なぜ文句を言いたいと思ったのか思い出せない。


「あなたは世界に生を受けそして死にました。だからここにいるのです」


「ここはいったい…」


男の質問に少しの沈黙の後に声が答える。


「ここはあなた方が言う所の死後の世界。天国や地獄の中間、辺獄(リンボ)何て言われています」


「辺獄…?」


男は腕を組考えるが辺獄とは何なのかはよく分からない。そもそもなぜ死んだのか、死ななくてはいけなかったのかも記憶が曖昧になってきている。


「辺獄とはいわば天国にも地獄にも行けない可哀想な方々が来る場所です」


「俺にぴったりだな…」


何故そう思うかはわからない。ただそんな気がした。


「私はあなたがどんな人生を送り、どんな事があって死んだのかはわかりません。しかし、あなた自身ももうほとんど覚えてはいないはずです」


その通りだった。何となく、生きていた時の感覚が残ってはいるがほとんど何も思い出せ無くなっていた。


「記憶は肉体に宿るもの、あなたは今や魂だけの存在です。今は手足があるかも知れませんがそれは肉体に引っ張られた形に過ぎません。いずれは本流へと帰るでしょう」


「本流…」


「ええ、少し歩きましょうか」


男は声の方へと向き直る。相変わらずモヤでまともに先が見えないが「こちらです」と言われた方へと歩み出す。少し歩いてモヤが嘘のように晴れていく。モヤの中は明るかったが今度は漆黒の世界でそこら中に星の様な光が瞬いていた。そして目を引くのが星々の流れが川となり果てのない煌めきが永遠へと流れている。その川は先の方で2つ別れ、その別れた先で枝分かれしていっている。


「これは…」


「綺麗ですよね」


隣で聞こえた声の方に顔を向けると綺麗な女性が立っていた。しかし、綺麗だと思うのだが顔ははっきりとは見えず、声も女性なのか男性なのかもハッキリしない。男が訝しんでいると、女性がこちらを向いて少し笑った様な気がした。


「ちゃんと見えないのは仕方ないです。見るのも聞くのも肉体あってこそです。魂が目の形と耳の形を無意識に作っているに過ぎません。そのうち何も感じなくなりますよ」


「そうか…」


「怖いですか?」


男は首を横に振る。男は望んでここに来たはずだったからだ。


「俺は…どうしてここに来たんだ?」


「どうしてでしょうか…私にはわかりませんが、辺獄に来る方は何となく貴方のような方が多い様に思います」


「俺の様な?」


「はい。死を受け入れている方です」


男は納得する。自分は死を受け入れているし、死んで当然でここにいるのが当たり前だと思っている。何故そう思うかは思い出せないが…


男が黙って川を見つめる。静かに流れる星の輝きは果てしなくどこまでも続き広がり続けていた。それはまるで星を巡る天ノ川でこの場所全てに輝きを行き渡らせるための血管の様だった。


「俺の人生はどんなだったのだろう…天国にも地獄にも行けなかった俺はどうなるんだ…?」


女性もまた川を見つめながら答える。


「あなたの人生はあなた自身が描いたものだったはずです。結果、天国でも地獄でもないこの場所に来たのは必然だった、と思います。」


女性がこちらに顔を向ける。朧気だった輪郭は更にボヤけて殆ど見えなくなっていた。


「あなたの人生はきっと価値のあるものだったはずです。そして、これからあなたは星へと帰ります」


先程まで半透明だった手足はなくなり、目や耳は原型を無くし流れ落ちる。彼女の姿はもう見えないし声も聞こえないが不思議と星々が流れる天ノ川のせせらぎとこの星の脈動が聞こえた気がした。


男だったそれは小さく煌めく星々に還りサラサラと流れ、天ノ川へと合流しゆっくりと流れて行く。綺麗で儚いその小さな光は沢山の光の一部になり何処までも続くその先へと旅立って行った。これから長い長い旅へと出るのだ。この母なる星を巡り、いずれまた何処かで生まれ落ちるその日まで。


「行ってらっしゃい。あなたの旅がきっと幸せでありますように…」


女性が男を送り出す。これでいったい何人の人達を送り出したのだろうかもう覚えていない。そして思う。いったいいつになったら自分の番が巡ってくるのだろうかと…


おわり

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