第8話 幽霊寺院の夜

バンコクの喧騒から少し離れたプラカノン運河。その静かな水面に映る満月の光が、夜の闇を薄く照らしていた。運河沿いに佇む廃寺は、かつての栄華を失い、今や忘れ去られた存在となっていた。しかし、この夜、その静寂は若者たちの声によって破られようとしていた。


ハロウィンパーティーの翌日みんなで深夜にバンコクの心霊スポットに肝試しに行くことになった。


瑠奈のタイ語は頭の中に山田長政がいるのでみんなが驚くほどに上達していた。


「マジで、ここでやるの?ヤバくない?」瑠奈の声が少し震えていた。彼女の頭の中で、山田長政の声が響く。


「何を恐れることがある。この山田長政がいる限り、幽霊など何ものも恐れることはない!」


瑠奈は心の中でため息をつく。「長政さん、調子乗りすぎ。アンタ、幽霊だけど」


ソムは瑠奈の不安そうな表情を見て、「瑠奈、大丈夫?ここは相当やばいところなんだけど」と心配そうに聞いた。


瑠奈は強がりを見せようと答える。「へーきへーき!ビビってないし!」


彼らの周りには、ソムの大学の友人たちが集まっていた。タイの学生たちは、好奇心と恐怖が入り混じった表情を浮かべている。


「プラカノン運河の幽霊」と呼ばれる都市伝説を聞いたことがある者も多かった。その伝説によると、この廃寺には悲惨な最期を遂げた僧侶の霊が出るという。しかし、その詳細は人それぞれ異なり、真相は誰にもわからない。


「じゃあ、行こうか」ソムが言った。「みんな、懐中電灯は持った?」


一同が頷くと、彼らはゆっくりと廃寺に向かって歩き始めた。月明かりだけでは十分な光がなく、足元は不安定だ。


「長政さん...」瑠奈は心の中でつぶやく。


「心配するな、瑠奈。この長政がついている」頭の中の長政の声に、瑠奈は少し安心を覚えた。


廃寺の入り口に立つと、皆の緊張が一気に高まった。朽ちかけた木造の門をくぐると、そこには荒れ果てた中庭が広がっていた。かつては美しかったであろう仏像や装飾が、今は苔むし、壊れたまま放置されている。


「ねえ、みんな聞いて」ソムが言った。彼の表情は普段の明るさを失い、妙に真剣だった。


一同は中庭の中央に集まり、円になって座った。ソムは懐中電灯を顎の下から照らし、不気味な表情を作る。


「昔々、このお寺に一人の若い僧侶がいました」ソムの声は低く、神秘的だった。


瑠奈は物語を聞きながら、頭の中の長政とも会話を続けていた。

「長政さん、こういうの聞いたことある?」


「わしの時代にもいろいろな怪談はあったがな...」


ソムの話が進むにつれ、瑠奈の緊張も高まっていった。

「...そして、ある満月の夜、彼は最後の決断をします」


「どんな決断?」誰かが小声で聞いた。


その瞬間—


「ブボッ!」


突如として、不気味な音が静寂を破った。同時に、何とも言えない異臭が辺りに漂い始める。


「うわっ!な、何!?」

「やばい!幽霊!?」

「え、えぇ...なんか変な匂い...」


全員が身を縮め、息を殺す。ソムが懐中電灯を周囲に向けるが、何も見当たらない。緊張は最高潮に達していた。


瑠奈は顔を真っ赤にして、小さくなっていた。頭の中では長政が大爆笑している。


「わはははは!瑠奈よ、そなたらしいぞ!」

「も、もう...長政さん、笑わないでよぉ...」


数分間の緊張した沈黙の後、瑠奈は小さな声で告白した。


「あの...ごめんなさい...私...緊張しすぎて...」


一瞬の静寂の後、誰かが吹き出し、それに続いて全員が大爆笑。緊張が一気にほぐれた。


「まさか、瑠奈のおならだったの?」ソムが涙を拭いながら笑う。

「だって...怖いんだもん...」瑠奈は真っ赤な顔で答える。

「いやぁ、本物の幽霊よりびっくりしたわ」誰かが言って、また笑いが起こる。


笑いが収まると、ソムは話を続けた。

「僕は水の精と永遠に結ばれるため、この運河に身を投げたのです」ソムの声が更に低くなる。「しかし、彼の魂は成仏できず、今でもこの寺と運河の間をさまよっているといいます。満月の夜、彼の悲しみの声が聞こえるという噂もあります」


話が終わると、一瞬の沈黙が訪れた。


タイの学生の一人が震える声で言った。「僕、今、何か聞こえた気がする...」


全員が息を殺し、耳を澄ます。確かに、どこか遠くで、かすかな泣き声のようなものが聞こえる。


「やべぇ...マジで何か聞こえる...」瑠奈が小声で言う。


「気のせいだ、瑠奈」頭の中の長政が落ち着いた声で言う。「幽霊なんてものは...」


しかし、長政の言葉も瑠奈の不安を完全に消し去ることはできなかった。


「じゃあ、探検を始めようか」ソムが立ち上がる。「二人組になって、寺の中を調べてみよう。何か変わったものを見つけたら、すぐに報告して」


瑠奈はソムの友人の一人とペアを組んだ。彼女は懐中電灯を手に、おそるおそる廃寺の内部へと足を踏み入れた。


「大丈夫か?」頭の中の長政が聞く。


「うん...なんとか」瑠奈は心の中で答える。


彼女たちは本堂へと向かった。朽ちた床は足音を立てるたびにきしみ、天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がっている。壁には古びた仏画が描かれているが、長年の風雨にさらされ、ほとんど判別できない状態だった。


「ねえ」瑠奈がペアの友人に小声で言う。「マジでやばくない?」


友人も不安そうに頷く。「うん、ちょっと怖いね...」


突然、背後で何かが動いた音がした。二人は素早く振り向いたが、そこには何もなかった。


「きゃっ!」瑠奈が思わず声を上げる。


「落ち着け、瑠奈」長政の声が響く。「きっと風か何かだ」


「た、多分、ネズミとかかな...」瑠奈が友人に言う。


しかし、二人の表情には明らかな緊張が浮かんでいた。


一方、ソムと彼の友人は寺の裏手にある小さな祠を調べていた。そこには、苔むした石像が置かれている。よく見ると、その像は運河に向かって手を伸ばしているようだった。


突然、祠の奥から「カサカサ」という音が聞こえた。ソムと友人は飛び上がり、思わず抱き合う。


その時、寺の外から「ザバーン」という大きな水音が聞こえた。全員が凍りつく。


「うわ!何あれ?」瑠奈が叫ぶ。


「瑠奈、落ち着け」長政の声が響く。「俺が見てくる...いや、お前が確認してこい」


「えぇ!?私が?」


「大丈夫だ。わしがついている」


瑠奈は深呼吸をして言う。「み、みんな、私が見てくるわ」


「危ないよ!」ソムが彼女の腕を掴む。


「だ、大丈夫...たぶん」瑠奈は震える声で答える。


彼女は懐中電灯を手に、ゆっくりと寺の外に出た。他のメンバーは、息を殺して彼女の帰りを待つ。


1分、2分...5分が過ぎた。


「瑠奈、大丈夫かな...」ソムの顔に不安の色が濃くなる。


そして、突然...


「きゃあああああ!!」


瑠奈の悲鳴に、全員が飛び上がった。


「瑠奈!」


みんなが一斉に外に駆け出す。月の光が運河の水面を銀色に染めている。そして、その岸辺に...


瑠奈が膝を抱えて座り込んでいた。全身はずぶ濡れで、顔は青ざめている。


「大丈夫か?何があったんだ?」ソムが尋ねる。


瑠奈はしばらく黙っていたが、やがてポツリポツリと話し始めた。


「私...女の人を見たの。長い黒髪の...綺麗な人を。その人が私に手を差し伸べて...気づいたら水の中にいた」


一同は息を呑む。瑠奈は水に引き込まれたのか?しかし、彼女はここにいる。どういうことだ?


「長政さん...あれは...」瑠奈は心の中でつぶやく。


「ああ...水の精だったのかもしれんな」長政の声には珍しく、動揺が混じっていた。


「でも、瑠奈は無事だよ」ソムが彼女を抱きしめる。「それが大事なんだ」


その言葉に、張り詰めていた空気が少し和らいだ。


「もう十分だ」ソムが言う。「帰ろう」


誰も反対しなかった。全員が急いで寺を後にし、来た道を引き返す。


後日、彼らはこの夜の出来事について何度も話し合った。本当に幽霊を見たのか、それとも恐怖と想像力が生み出した幻覚だったのか。結論は出なかったが、一つだけ確かなことがあった。


プラカノン運河の廃寺に、二度と肝試しに行く者はいないということだ。


そして瑠奈にとっては、もう一つ確かなことがあった。長政の存在が、彼女にとってどれほど大切かということを、改めて実感したのだった。


エピローグ:


それから数週間後、瑠奈たちは再びソムの大学の友人たちと集まった。今回の場所は、賑やかな屋台が立ち並ぶバンコク市内だった。


「あの夜のこと、まだ夢に出てくるんだけど」瑠奈が言う。


「俺も...あんな経験は二度とごめんだ」頭の中の長政の声に、瑠奈はクスリと笑う。


ソムが笑いながら言う。「でも、みんなで怖い思いをして、もっと仲良くなれたと思わない?それに、瑠奈のおかげで最高の思い出もできたしね」


「もう、あの話はやめてよ〜」瑠奈が頬を膨らませる。


「いやいや、あのおならのおかげで緊張がほぐれたんだよ。瑠奈のおかげだよ」


確かに、あの夜の経験は彼らの絆を深めた。恐怖を共有し、互いを気遣う中で、彼らの友情は一層強くなっていた。


そして、瑠奈の思わぬ失態は、かえって思い出深いエピソードとなっていた。


「そうだね」瑠奈が言う。「でも次は、もうちょいマイルドな感じでお願い」


全員が賛同の声を上げる。


「じゃあ、今夜はカラオケはどう?」ソムが提案する。


「それもそれでやばそう」瑠奈が冗談を言う。「みんなの歌声聞くの、怖すぎかも」


一同が笑う中、瑠奈は心の中で長政に語りかける。


「長政さんも、一緒に楽しもうね」


「ああ、瑠奈。お前が楽しめば、わしも楽しいのだ」


彼らは美味しいタイ料理を楽しみながら、あの夜の冒険について語り合った。恐ろしい経験も、今となっては良い思い出。そして何より、この経験が彼らの絆を一層深めたことを、みんなが感じていた。


バンコクの夜景を背景に、若者たちの笑い声が響く。瑠奈の冒険は、目に見えない相棒・長政と共に、まだまだ続いていくのだろう。ただし、次はもう少し安全な冒険を選ぶことを、瑠奈は心に誓ったのだった。

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