桜子日記

長井景維子

一話完結です。

毎年、その日が来ると、秋薔薇とかすみ草の花束を買い、小さな仏壇の前に供えるのが松下和泉の習慣になっている。一人娘の桜子が、いじめを苦に自殺したのは、もう30年も前のことだ。まだ中学一年生だった。今日は桜子の生きていれば43

回目の誕生日だった。


制服を着て、友達と並んで写っている桜子の遺影は、屈託のない笑顔を浮かべている。あえて両側を友達に囲まれていて、制服を着て微笑んでいるこの写真を選んだのは、桜子がいじめにあっていた事実を認めたくなかったという親のエゴだったかもしれない。


小さい時からおもちゃも着るものもふんだんに買い与えた。愛情も目一杯注いで育てたつもりだ。テーマパークにもよく連れて行ったし、夏休みには海外にも親子で旅行して、思い出を残した。毎日の食事も和泉が体に良くて美味しいものを考えて一生懸命手作りした。和泉は桜子が三歳の時に夫と離婚して、シングルマザーだった。比較的給与の良い大企業に勤めていたおかげで、経済的には恵まれた母子家庭だった。


親の離婚が桜子の心にどう作用したのか、和泉は気になって仕方なかった。離婚した当初は、夫の浮気に耐えられず、自分も大手企業の正社員だったので、夫と別れて、桜子を女手一つで育てる自信があり、離婚に踏み切った。しかし、男親の必要な時期もあり、その時には離婚したことを後悔したこともあった。夫が家庭にいれば、あの子は自殺したりなんかしなかったのではないだろうか。それを考える時が一番辛かった。


夫の後藤圭一は、小さな建築会社を経営する社長だった。商売にはそれほど欲がなく、しかし商才はないわけでもなく、会社は不景気にも負けず存続して、女房子供を食べさせるには十分な稼ぎがあった。和泉は、夫が浮気さえしなければ、何も文句はなかった。しかし、和泉より五、六歳も年下の銀座のホステスに入れあげて、着物や宝石を買ってやったという証拠を掴み、耐えられなくなって離婚した。夫の浮気を思うと、まだ幼い桜子が不憫だった。桜子の寝顔を見ながら涙を流し、離婚を決意したのだった。


                

玄人さんに入れあげたぐらい、私が我慢すればよかったのだ。和泉は今でも自分を責めていた。圭一がいれば、桜子は死ななかったかもしれない。


桜子は友達がいない訳ではなく、大人しいタイプだったが、いつもそばに気の合う同性の友達がいて、仲間外れになったということは、本人の口からは聞いたことがなかった。父親が三歳からいなくて、寂しい思いをしていたのかもしれないが、和泉も精一杯の努力をして育てていた。寂しいなんて言わせない、そう思いながら育てていたのは、実は正直なところだった。


桜子は、自分の部屋で首をベルトで吊って亡くなっていた。第一発見者は和泉だった。そばにノートがあり、遺書らしいメモ書きが書いてあった。


「お母さん、ごめんなさい。いじめにあってたって言えなかった。お母さんが悲しむと思うと言えなかった。うちはシングルマザーだから、お父さんに会いたい気持ちも隠してた。もう、疲れました。意地悪する子がいたとしても、私の負けです。私はこうやって自殺して逃げるんだから。学校に行きたくないだけじゃないの。もう、私なんか生きていけないくらい、人生は苦しみに満ちているんだと思う。自信がないの。ごめんなさい。」


和泉はこの遺書を読んだ時、この子の後を追って自分も死のうと思った。そして、包丁を握り、手首に当てたとき、携帯電話が鳴った。途端に我に返り、警察に通報することを思いついた。そして、学校にこの子をいじめていた子がいることを、認めさせなければいけないと、思いついた。いじめを野放しにした担任の教師にも謝罪させなければいけない。この子の仇をとってやらなければいけない。何より、いじめていた張本人の子供の顔をみて、睨みつけてやる。


和泉は警察に通報した。警察はすぐに無灯のパトカーでやって来た。住宅地で目立ってはいけないと、気を利かせてくれたらしい。


警察官が桜子の遺体を見て、写真を撮り始めた。和泉は泣き崩れて、婦人警官に慰められていた。驚くのが、警察は第一発見者の和泉を、まず、犯人の可能性がないか、調べるという。和泉は泣きながら、


「私が殺したっていうんですか?いいですよ。どこへでも連れて行ってください。死んでやるから。この子がいないなら、私なんて生きていても仕方ないんです。」


警察官は、あまりにもひどいことを言ったと、丁重に謝り、桜子の首にある痣を見て、ベルトでできたものに違いないと言い出した。そしてベルトを手袋をした手で証拠品として押収した。


和泉と同じ歳の頃の婦人警官は、和泉を気遣って、特徴のあるへの字の眉毛をさらに歪めて、気の毒そうに、そして専門家らしくこう言った。


「今日はお一人でこの家に居ない方がいいです。誰か近くにご親戚とかいませんか?お連れします。」


和泉はぼーっとしていた。桜子の遺体から離れたくない。でも、この婦人警官のいうことは正しいと思えた。


「……… はい。両親が海老名にいます。そこへ行きたいです。電話してみていいですか?」


婦人警官は、


「警官から電話しましょう。その方が良くないですか?」


「はい。お願いします。」



海老名の両親は警察からの急な電話に、驚いて茫然自失だった。そして、涙に暮れた。そこへ、和泉が覆面パトカーに乗って到着した。


「和泉!」


「お母さん、どうしよう、私、どうしよう。」


「桜子ちゃんは、お体はどこ?」


「今夜は警察に任せなさいって言われた。いろいろ家の中取り調べとかあるみたい。」


護送してくれた婦人警官は、名刺を見せて、

「お亡くなりになった方については、明日、ご遺体をお返しします。解剖の必要はないと連絡がありました。申し上げにくいことですが、自死されたのです。」


「……… そうですか。」


「明日、朝10時にお迎えにあがります。警察の車両でおうちまでお届けします。」




桜子の葬儀が始まり、担任の教師が焼香にやって来たが、和泉は、


「帰ってください。」


と短く言って、遠くを見つめるような目でしばらく立ちつくした。桜子のクラスメイトも焼香にやって来た。和泉は、ただ会釈をして、唇を噛んでいた。どの子がいじめた。桜子、言ってごらん。ねえ、なぜ黙ってるの。お母さん、その子をひっぱたいてやる。


桜子は荼毘に付されて、まだ若い、真っ白な綺麗なドクロとか細い脊椎、骨盤などの骨になってしまった。和泉は骨を見て、今までで一番泣き崩れて、骨拾いもできないくらいだった。


葬儀が済んで、お骨を抱いて家に帰り、親戚がガヤガヤと家の中であれこれしている間はまだ良かった。みんな帰ってしまって、母と父が残ってくれた。和泉は寝込んでしまった。忌引きも終わるというのに、会社になんて行けそうもなかった。


別れた夫、後藤圭一が花を持って焼香に訪れた。和泉は、初めてこの男に甘えたいと思った。胸を貸して欲しかった。その胸で思いっきり泣きたかった。もう、別の所帯を持つ圭一に、和泉は甘えられなかった。ただ、桜子が残したノートを見せ、自分宛の遺書に、桜子が父に会いたかったと綴っているのを見せた。圭一の目に光るものがあった。圭一は一言も喋らず、帰って行った。


和泉は忌引きが開けたあと、精神科に通い、診断書をもらって、一ヶ月の間、入院した。極度の鬱だった。抗うつ剤を服用したが、眠くなるだけで、気分はよくはならなかった。


一ヶ月が過ぎる頃、精神科医が、

「松下さん、お嬢さんの代わりにはなるわけはないですが、何か犬か猫を飼ってみてはどうですか?気休めにはなるかもしれませんよ。」


と言った。和泉は、犬を飼いたいと思った。両親に話すと、


「会社辞めて、海老名のうちにおいで。一緒に暮らそう。犬も飼おう。和泉一人分くらい食べさせてあげるから、大丈夫だよ。」


和泉は退職した。両親に甘えることにした。両親としては、和泉をそばに置く方がずっと安心だった。一人にすると、いつ変な気を起こすかわからなかった。


桜子を納骨して、少し気分も落ち着いて来た。しかし、まだ鬱の症状は治まってはいなかった。薄紙を剥ぐように、少しずつ鬱が治っていく。それを待ちなさい、と医者は言った。焦ってはいけません、と言われた。


和泉は、海老名の図書館で、子供達に絵本の読み聞かせのボランティアを始めた。

子供達の純真さに触れて、少しずつ鬱も影を潜めて来た。そして、秋になり、桜子の誕生日が来ると、和泉は秋薔薇とかすみ草の花束を仏前に供えた。


桜子が死んでから飼ったポメラニアンのメルが、和泉の膝に乗ろうと甘えてくる。和泉はメルを抱き上げて、


「メル、メルにはお姉ちゃんがいたんだよ。会いたかったね。今日は桜子姉ちゃんのお誕生日なの。今日で14歳だよ。メルも14歳くらいまで長生きしてね。」


と言いながら、メルの顔を覗き込んだ。父は、


「そうか、まだ14歳。まだまだこれからだよなあ、人生。あの子はきっとまた幸せに生まれ変わるよ。」


「いじめの犯人を暴くことにエネルギーを使おうと思っていたの、鬱の間は。でも、メルが来てからは、今いる子供達にいじめの怖さを教えてやりたいと思うようになった。いじめを少しでもなくしたい。桜子のような死に方をする子供を無くしたいの。」


「和泉のライフワークにもなりそうだね。そういうことしていけばいいんじゃないか。」



和泉は、まず、本を書いた。それをまず電子書籍で出版し、ブログも始めた。『桜子日記』。桜子に死なれてから、辛かったこと、鬱になって病院に入院したこと、そしてメルとの出会い、それから、今、いじめてる子達に思うこと。いじめられてる子達に勇気を出して生きて欲しい気持ち。人間、子供のうちは一番残酷。大人になると、分別ができて、理不尽ないじめはもうしなくなるから、今、いじめられてる子は、今をどうにか凌いで大人になって欲しい。必ず素晴らしい大人になれると思うと書いた。そして、正式に出版社からオファーが来て、『桜子日記』が出版された。


和泉は桜子の存在を広く知って欲しいと、『桜子日記』のピーアールを始めた。数冊ずつ精神科のクリニックの待合室に置いてもらって、読んでもらうようにした。


桜子の一周忌も滞りなく済み、和泉はこの頃には笑顔も見せた。メルのおかげが大きかった。そして、毎年、桜子の誕生日にはホームパーティーを開き、桜子が生きていればどんな子だっただろうか、とみんなで話した。そして、秋薔薇とかすみ草の花束を仏壇に供えるのだった。


あれから30年が経ったのだ。和泉はすっかり年老いて、圭一も昨年、世を去った。和泉と圭一は戦友のような関係だった。圭一の妻や子供の理解もあって、圭一は和泉と一緒に桜子の誕生日を祝い、命日には墓参りをし、そして、和泉が行なっている、いじめをなくすための講演にも協力した。和泉は頼まれると、ほとんど手弁当で講演した。地元だけでなく、全国の中学校へ出向き、子供達、保護者、教師たちに自分の経験を語り、『桜子日記』を読んでもらえるように、図書室に数冊ずつ寄付した。


桜子、待っててね。お母さん、この仕事終えたら、そっちに行くよ。もう、30年も待たせちゃったね。だんだん、日本からいじめがなくなりつつあるよ。もう少しでやり終えるから。そうしたら、桜子、迎えに来て。もう、お母さん、いいよって言いたくなったら、呼びに来て。お父さんによろしくね。

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