或る女優

@fujisakikotora

ある女優

「今日は来てくれてありがとう」

その女子高生、小林ひとみは目を伏せたままわずかに頷いた。ひとみと会うのは二週間ぶりである。ようやく連絡が取れたのは昨日。それまで、私は彼女が警察に連れていかれてしまったものと思いこんで気をもんでいた。

「大丈夫?」

私の問いには答えず、ひとみはちょっと前髪を触ってから言った。

「どうしてあの場所が分かったの」

「蛇の道は蛇ってやつでね」

「じゃ……?」

私は苦笑した。

「コネがあるから分かるってこと。私が3年以上トーヨコの取材ばっかりしてる記者だから」

それにしても、と私は思う。あれほどきわどい現場に居合わせたのは初めてだった。私が部屋に踏み込んだとき、彼女は血まみれで震えていた。幸い、彼女の血ではなかった。私はなぜとも自分でわからないうちに、直感的に彼女を逃がした。彼女と会うのはそれ以来だ。

私の話が耳に入っているのかどうか、ひとみは焦点の合わない目でアイスコーヒーのグラスについた水滴をなぞっていた。

「なんで」

「なにが」

「なんでトーヨコなの」ひとみは静かに訊いた。

私は髪をかき上げて息をついた。平日の午前中、渋谷駅から少し歩いたところにある喫茶店には、それほど多くの客はいない。真四角のテーブルはひんやりとしていて、その鋭い角を私は親指でなぞった。

「小学校から高校まで一緒の友達がいたんだけど」私は話し出した。

私が小学5年生のとき、佐枝子という女の子が転校してきた。友達の少なかった私と、クラスに馴染めなかった佐枝子はたちまち意気投合した。同じ中学校に進み、交換日記をつけ始めた。

「高校も同じところに上がったんだけど、しばらくするとその子、授業中寝てばっかりになっちゃってさ。心配して聞いたら、こっそり教えてくれたの。夜中に家を抜け出して遊んでるって」

佐枝子は化粧や香水に金をかけ始め、よくいえば急速にあか抜けていった。しかし外面の変化に比例して、彼女のきらめきのようなものが内側から蒸発するように消えていき、優越感と劣等感をないまぜにしたような危なっかしさをはらんでいった。悪い噂が学校に流れた。私はそれを聞かぬようにし、また聞いてもいないような態度で彼女と接した。彼女の周りには近づきがたい雰囲気の友人が増えていき、私と佐枝子との距離は少しずつ開いていった。

そして、佐枝子が学校をやめるらしいという噂が流れ始めていた高校2年の夏。

「田口八重!」背後から声をかけられた。

振り返ると、人形のように顔をきれいに整えた佐枝子が立っていた。私はその頬に目を引き付けられる。かつての愛おしい頬、赤味がかった、ふっくらとした頬は平らかになり、化粧の下に塗りこめられていた。

「今夜、空いてない?」

佐枝子はどうしたことか、私を夜の街に誘った。二人で遊びに行こう、と。断れなかった。佐枝子とまた、昔のように本や映画の話を何時間もしたかった。

待ち合わせ場所は、新宿の東口を出てしばらく行ったところだった。そこがいわゆるトーヨコと呼ばれるエリアに隣接していることは後で知った。

私が待ち合わせ場所に行くと、佐枝子はすでに五十台くらいの男と待っていた。そこで出会ったばかりだという。私は訝しんだが、慣れない街の雰囲気にも圧され、黙ってついていった。

三人で食事をした。男は佐枝子だけでなく私にも食事代をおごり、それだけでなく小遣いまでくれた。

「で、この後のことなんだけどさ」男が慣れた様子で、商談のように話し始める。いや、それは商談に違いなかった。

ようやく事態が呑み込めてきた私は、佐枝子を見た。懇願したつもりだった。

佐枝子は私のほうをちらりと見た。いたずらげに。見直すように、もう一度こちらを見た。今度はかすかに悲しげだった。恐らく、世界で私だけがそうとわかるほどかすかに。彼女の目には、私の目に軽蔑が映ったのであろう。

佐枝子はあっさりとその男と別れ、私と新宿駅まで歩いた。一緒に帰るものと思っていたが、しかし佐枝子は改札口で立ち止まり、

「あたし、もうちょっと遊んでくから」と言った。

先ほどの男と落ち合うのだと直感した。私と男を天秤にかけ、男を取ったのだ。私の頭はしびれたようになってしまい、そのまま無言でのめりこむように改札を抜けた。

佐枝子が私の背中に呼びかけた。私は胸の奥に残ったほんの少しの希望をすくって、振り向いた。

「そして、こうやって手を振ったわ」

私は夢で何度も見た、そのときの佐枝子の手つきをひとみにやって見せた。いやにキザな、私の知らない手の振り方だった。それを見た瞬間だけは、私は佐枝子のすべてを憎んでいた。何の涙かも分からぬまま、ぼやけた視界の中、私は奥歯を噛んで駅の階段を駆け下りた。

それが佐枝子の生きている姿を見た最後になった。

「翌朝、新宿の裏手の公園で冷たくなってた」

ひとみは無表情に話を聞いていたが、それを聞いて冷たい目をテーブルに落とした。私は胸の詰まるような苦しさを覚える。半年ほど前、ひとみとトーヨコで出会った。私はすぐに取材を申し込み、話を聞き、連絡先を交換した。それは彼女の顔にどことなく佐枝子を思わせるものがあったからだった。

「それであたし、警察官か新聞記者になろうと思ったんだ。ま、実際はゴシップ誌の記者なんだけどね」

ひとみのアイスコーヒーは、氷があらかた溶けて薄い色になっていた。

「なにか食べる?」私は訊いたが、ひとみは黙って首を振った。

「何があったか教えてくれない?あの夜のこと」

このところ、ホテルで起きている連続猟奇殺人は、いまだ犯人が捕まらず、連日ニュースになっていた。被害者が首を嚙み切られて死んでいる点、また容疑者が女性とみられることから、犯人は「女吸血鬼」または由来不明ながら「ジャンヌ」などと呼ばれている。

今日ひとみを呼び出したのは、彼女がジャンヌの顔を見ている可能性があるからである。二週間前の晩、私はある男を追っていた。少女に暴行を繰り返している男がトーヨコにいる噂をつかみ、ずっと探していた。その晩、男が現れたと聞いた私は現場に駆け付けたが、すでに男の姿はなかった。聞くと、ひとみがその男と連れ立ってどこかに消えたと知った。ひとみにも連絡がつかず、私はあらゆるコネを使ってひとみの所在を探り、ホテルを突き止めた。そして部屋に踏み込むと、すでに男は首から血を流して絶命し、ひとみが部屋の隅で震えていた。

後になって、これがジャンヌによる猟奇連続殺人の第一号にあたることがわかった。

「私がやったんじゃない」

「大丈夫、それはわかってる」腕力からしても無理だろう。また歯形と唾液から、容疑者は成人女性とみられていた。

「何があったの?」

「ホテル入ってからもめて。お金のことで」

「うん」

「大声出すから、怖くなって逃げようとしたら、腕掴んで引き倒されて。そのとき……あの人が」

少し待ってから、私はゆっくりと聞いた。

「ジャンヌね」

ひとみは黙っていた。

「女の人なのね?」

ひとみはうなずいた。

「悪い人?」

「え?」

「あの人悪い人?あたしを助けてくれたんだよ」

「そうね」私は頷いて言った。実際、ジャンヌがいなければひとみの身に何があったかわかったものではない。が、私はジャーナリストである。こんな特ダネに交錯した以上、追いかけざるを得ない。私が質問を重ねようとしたとき、ひとみが小さく呟いた。

「お空の上から、誰かが見てる」

その言葉に、私は凍り付いたようになってしまった。何かが私の記憶に引っかかった。

「なんて言った?」私はようやく訊いた。

「お空の上から、誰かが見てるんだって。その人が言ってた」

私は鋭い頭痛を覚えた。


ある女優がいる。浅沼京子という名である。

ひとみの取材を終えた数日後、私はしまい込んでいた佐枝子との交換日記を引っ張り出して、ページを繰った。佐枝子が私に教えてくれた、女優の奇妙な話を探して。


浅沼京子は人気のない子ども向け番組に出演していた、地味な暗い女優だった。どんなスキャンダルだったか、ともかく彼女は突然逮捕されることになるのだが、その際、妊娠を隠していたことがわかった。五か月だった。やがて臨月となり、勾留中だった京子は一時的に釈放された。

京子は都内の病院に入院し、無事出産する。しかし出産を終えて早々、赤ん坊もろとも病院から姿を消してしまった。

数日後、京子のものと見られる靴が岸壁で見つかった。遺体は上がらず、赤ん坊の所在も不明であった。恐らく今も不明のままだろう。

「この人が、あたしの本当のお母さんなんじゃないかと思ってる」佐枝子は書いていた。

佐枝子は養護施設で育った。養護施設と京子の入院していた病院とは、歩いていけるほどの距離だったのである。

「あたしに似てない?」佐枝子は日記に浅沼京子のブロマイド写真を貼り付けていた。

黒い髪に黒い服、そして真っ黒な瞳をたたえた三白眼が、物憂げにこちらを見つめていた。あのときは正直、どこが似ているのかといぶかしんだ。しかし、佐枝子が生きた最後の日々、頬のこけたいやに美しい肌、あの目に湛えていた寂しさ、近づきがたさは、確かに浅沼京子に共通するものがあった。色あせたブロマイド写真をなでて、私はいまさらそう思った。

「お空の上から、誰かが見てる」私は佐枝子がその言葉を綴ったページにたどり着いた。京子が口にしていた言葉らしい。彼女は敬虔なクリスチャンだった。彼女はあるインタビューでこう語っていたという。

「詩篇一二一章にこんな言葉があります。『主は、あなたを見守りたもう、あなたを覆う陰であり、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことあたわず、夜、月もまたあなたを撃つことはない』。誰かが見守ってくれてるって、監視されてるってことでもあるじゃないですか。だから人は正しくあろうとするし、安心もできる。私もいつか母親になったら、こんな風に静かに見守って、子供が自戒したり、自信をもったりできる存在になりたいですね」

私は静かに日記を閉じた。

それなら、と私は思った。それならどうして、あんたはあの夜、あの新宿の公園で、自分の娘を見捨てたのか。お空の上からよく見えたであろう、あの新宿の、公園で。


私の部屋は、段ボールや古い日記で散乱していた。テーブルの上でコーヒーが冷たくなっていた。

「問題はジャンヌだ」私はそう口にして気を取り直した。そう、問題はジャンヌである。なぜその言葉を、ジャンヌが口にするのか。           

                  

スマホの着信音が鳴った。ひとみからだった。「画像を送信しました」という通知を見て、ぼうっとしていた私の頭に記憶が一気によみがえる。似顔絵だ。ひとみがジャンヌの似顔絵を描いてくれることになっていた。

画面を開くと、その女がいた。思わずスマホを取り落としそうになる。真っ黒な髪に、虚空を睨む真っ黒な三白眼。ブロマイドとは構図が違う。なぜか不気味なほど若々しくて、しかしそれゆえ間違えようもなかった。私はすぐにひとみに電話を掛けた。

しかし、私が再びひとみに会うことはなかった。


「あれ?田口もう外出てんの?」

「あ、休むって、さっき電話が」

「田口が?」

「はい。二週間」

「はあ? どうすんだ十月三週号。あとジャンヌ特集の原稿」

「上がってます。これ、今朝デスクにありました。その次号分の原稿もついてます」

「……いつ寝てんだ」

「最近おかしいっすよ田口」

「これ、裏取れてンの。女子高生のひとみって」

「はいはいこれからやりますから置いといてくださいよ」


「いらっしゃいませ、だぴょんっ!」

横須賀の、一見うらぶれたスナックのような扉を開けると、女、いや少女が出迎えた。ミニスカートに胸元の開いた衣装、頭にはウサギの耳をつけている。

「あなたいくつ?」

私は瞬きもせずに聞いた。

「えっ……」と彼女は言葉に詰まる。

「オーナーさんに会わせてほしいんだけど」私は屈みこむようにして彼女の目を見て言った。

 三十秒後、少女は店の奥にある扉の前に立っていた。腕組みをした私とその扉に挟まれて、彼女はさながら追い詰められた子ウサギのようだった。

「店長ォ……」

少女はおそるおそる中を覗き込みながら、その扉を開けた。

「なんだよ」

とぶっきらぼうな返事が中から聞こえた。私は少女を押しのけるようにして部屋に入っていった。

「おいおいおいなんだあんた」

男はソファにふんぞり返ったまま、吸っていたタバコらしきものをローテーブルにじかに置いた。

「人を探してます」

「は?」

「この二人です」

私はひとみと浅沼京子の写真を男にかざした。男はちらと目をやったきり、冷めた目をこちらに向けた。

「何だてめえ」

次いで、男は扉のところで小さくなっている少女を睨みつけた。

「何連れてきてんだコラ」

「だって……」

「あの子は関係ない。だいたいあの子いくつ。こんな夜中に」

「関係ねえだろ」

「ここがただのコンカフェじゃないこともわかってる。ベッド付きの個室があるんだって?」

「……なんだあんた?」

と、男が少しひるむ。

「小林ひとみ、浅沼京子」と私は再度写真を見せて畳みかけた。

「ひとみちゃん……」

と、少女が後ろで呟いた。

「お前は黙ってろ」男は怒鳴った。私を苛立たしげに一瞥して、男は言った。

「ああ、働いてたよ、十八歳と聞いてました、でももう何か月も来てません」男は棒読み口調で言った。

「いきなり来なくなって大迷惑だったんだよ。もう帰れ」

「住所知らない?」

「苗字も知らねえ。帰れって」

私はあれからひとみに何度も連絡を試みたが、電話は通じなかった。

私も住所までは聞いておらず、トーヨコのネットワークにも手掛かりはなく、ひとみは消えてしまった。煙のように。あるいはあの女優のように。

「こっちは?」と私は浅沼京子の写真を男に近づけた。

「知らねえ」

男は目を泳がせて答えた。妙に返事が早いのも引っかかった。

ジャンヌの正体を知るうえで、ひとみの重要性はさらに増していた。ポイントはジャンヌの手口である。被害者の携帯電話を解析したところ、ジャンヌは未成年の女性を装って男性をホテルに呼び出し、二人きりになったあと殺害していた。ひとみが巻き込まれた事件の男のスマホにもいかがわしいやり取りが無数にあったものだから、警察は同様の手口が使われた可能性を排除できていなかった。

が、私だけは知っていた。ひとみの事件だけは明らかに異なる手口が使われている。なぜなら男とホテルに入ったのは紛れもなくひとみだからである。

そこで、一つの仮説が生まれた。「ひとみとジャンヌは、顔見知りだったのではないか」。私はこの仮説に基づいて、ひとみがアルバイトで働いていた横須賀の怪しい店を突き止め、訪問した。もっとも、こんな反応をされるのは計算ずくである。何も準備せずに来る私ではない。

「矢島さんですよね」

男の顔色が変わった。

「は?」

「矢島邦明さん。五年前まではフィリピンで……」

「ちょ、ちょっと待てよ、どこで……」

私はローテーブルで甘ったるい煙を上げ続けているタバコをつまみ上げて踏み消し、男に顔を寄せた。

「話を聞かせなさい」

矢島の額に薄く汗が浮かんでいた。


矢島は錆びついたドアを閉めた。屋上にはゴミやタバコの吸い殻が散乱していた。矢島がタバコに火をつけると、せっかくの屋外の新鮮な夜気に、またぞろ不快なにおいが混じる。

「あんた誰なんだ」

「何か知ってますよね」私は無視して訊いた。

「あの写真、ろくに見もしなかった。目を逸らしたように見えたけど」

「キョウコさんだろ」

一瞬呼吸が止まった。

「キョウコ?」と私はわかっているのに聞き返した。

「キョウコだって言われたよ、ひとみから」矢島はなんでもなさそうにタバコを吸い続けているが、よく見るとその指は小さく震えていた。

「どういうこと?」

「その写真そっくりの絵がひとみからメールで送られてきた。キョウコさんが来るって」

「来る?ひとみちゃんのところに?」

「俺んとこにだよ」

「なぜ?」

「知らねえよ。気持ちわりいからブロックしたわ。誰だよキョウコって」

私は黙って考えていた。矢島は初めてこちらを振り向いた。

「誰なんだよ」

焦燥がにじみ出ていた。

「海賊戦隊パイレンジャー」私は静かに訊いた。

「あ?」

「二十年前の特撮モノです。評判は散々だったけど、語り草になってるエピソードがあるの。パイレーツイエローとグリーンが、第二十二話でいきなり死ぬんですよ。ワニに食われて」

矢島は呆気にとられている。

「その回では冒頭から戦闘シーンなんです。初めからみんな変身してて。顔を隠す必要があったんですよ。イエローとグリーンの役者がいなかったから」

「役者が……?」

「イエローが失踪したんですよ、二十一話の収録直後に。それが浅沼京子です」

口をポカンと開けて話を聞いていた矢島は鼻で笑った。

「なんだそれ。俺となんの関係があんだよ」

「それはひとみちゃんに聞いてみないと」

「わけわかんねえ……」矢島はイライラと煙草を踏み消した。

「つか、どうでもいいけどさ」

「何?」

「緑のやつは?黄色は失踪したんだろ。グリーンは」

「死にました」

「それは設定だろ」

「本当に死んだんです。二十一話の収録の後。イエローに首を噛み切られて殺されました」

矢島の息が詰まった。

「首?それ、まるで……」

浅沼京子のスキャンダルは、古い事件だったうえに事務所とテレビ局が隠蔽を図った節があり、解明に少し手間取った。しかしたどり着いてみると妙な既視感があった。前にも一度この事件を調べたような……。

浅沼京子はグリーンこと坂田と恋仲だった。撮影途中に妊娠が発覚したが、彼女はそれを隠して出演を続ける。しかし、第二十一話の収録後、彼女は坂田が小児性愛者だと知る。彼の自宅で忌まわしいビデオを発見したのである。

「浅沼京子は幼いころ、父親から性的虐待を受けていました。それは彼女が決して許せないことだったんです」

「ふうん」と、矢島は二本目の煙草に火をつけ、せわしなく吸った。

「フィリピンで、何してたんでしたっけ?」

唐突に訊かれ、矢島の動きが止まった。

「ひとみちゃんにも何かしたんですか?」

「そんなんお前に……」

憤って振り向いた矢島は、私が取り出したスマホに気づいた。

「それ、ひとみのか?」

私はスマホをその場に落とした。

「なんでお前が……」

慌ててそのスマホを拾い上げようとする矢島の首筋に、歯が立てられた。確かに浅沼京子は来たのである。


週刊誌ロッカクのデスクは、いきなり休暇を取ったうえに連絡のつかない田口八重にカンカンだった。一方、彼の指示で八重の記事の裏を取ろうとした記者は苦戦していた。ひとみが見つからないのである。しかし、答えは拍子抜けするほど目の前に転がっていた。

「小林ひとみとは、一連のジャンヌ事件の最初の現場で死亡していた女子高生である」。

問いただそうにも、八重とは連絡がつかない。デスクはさらに怒り狂ったが、八重が二週間を過ぎても会社に出てこなくなると、彼女の自宅に人をやり、さらには警察に連絡を入れた。

事態が進展したきっかけは、横須賀のコンカフェ経営者、矢島がビルの屋上で殺害された事件である。直前に店にやってきた女の顔を、従業員の少女が目撃していた。ここへきて、八重の捜索は捜査に切り替わる。

八重の自宅から大量の血痕のついた衣類が見つかると、週刊誌の記者たちは気づいた。もはや自分たちがやっているのは社員の安否確認ではなく、立派な取材であると。

次いで、八重の部屋から奇妙な手記が発見され、記者たちは震撼する。ひとみの事件の実際の状況は、こう推測されていた。ひとみと男はホテルの部屋に入り、その後何らかのトラブルになる。ひとみは男に殴打され、転倒した際に頭を打って致命傷を負う。男は泥酔状態で、そのままベッドで眠り込んでしまった。八重が部屋に乗り込んだ際にはすでに手遅れで、ひとみは絶命していた。八重は状況を見て取るや、半狂乱で男を殺害した。ところが、その手記の中では八重はひとみとホテルを脱出したことになっていた。

かつて失った親友の佐枝子に似た顔、似た境遇のひとみ。彼女の死を八重は受け入れられなかったのだろう。そのときから、八重の中に何かが住み着いた。

横須賀の町に消えた八重はまだ、見つかっていなかった。


サイレンが鳴って、女はショーウィンドウを見るふりをして背を向けた。再び訪れた静寂のなか、ふと見上げた女の顔を、微かな月明かりが照らした。

「お空の上から、誰かが……」

恨むように、哀願するように、呆然と呟いた女の顔を、赤い光が照らし出した。女は振り向く。その黒い眼は挑むようで、自分を照らす光を逆に射すくめるかのようである。やがて女は、潮風と水っぽい夜気が織りなす螺旋に消えていき、そして忘れられていった。


                                 終

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