夜すら味方してくれない。

山口夏人(やまぐちなつひと)

第1話 夜から逃げるぞー

 家族も全員寝てしまって、窓の外からも音が聞こえてこなくなった深夜、ベッドに寝転がり電子書籍で漫画を読んでいた俺の携帯に、一つ通知が来た。


『寝るの何か嫌なんだけど暇?』


 通知を寄越したのは同級生の女子である如月若菜(きさらぎわかな)だった。彼女とはクラスが一緒だったが、ときおり言葉を交わす程度で、こんな夜中に連絡し合うような仲ではなかった。


 俺は女子からの連絡に少し嬉しさを覚えたのと反面、どう返信すれば良いのか戸惑いを覚えた。長く悩んだって、良い答え方は思いつかないだろう。俺はそう諦めて、今の気持ちを素直に送った。


『俺も寝るの嫌かも』

 返信を送ると、すぐに彼女から新しく文章が送られてきた。


『じゃあさ、こんな夜から逃げ出しちゃおうよ。住所教えて?財布も持ってきてね』


 俺はそれを冗談だろうと考えていたが、彼女はどんどん連絡を寄越してくる。


『今自転車乗った。外寒いから早く住所教えて』


『ハヤク!』


『何してんの?』


 彼女が本気らしいことを知って、俺は断ることもできずに住所を送った。そして上着を一枚羽織ると、財布をポケットに突っ込んで、静かに家を抜け出した。いつもは寝ている時間の空気は、とても澄んでいて、肺に良く馴染むような気がした。頭はスッキリしていた。それでも正気じゃないのだろう。


 俺は一体どこに連れて行かれるんだ。


 待っていると、曲がり角の向こうから、チェーンの空回りする音が近づいてきた。如月若菜は、ペダルから両足を浮かせた状態で姿を現し、勢いのままタイヤを転がして家の前へと止まった。


「お待たせ、ほら行くよ」


 彼女は親指を立て、腕を曲げて、自転車の荷台を指し示した。


「いや、俺も自転車持ってるし」


 すると今度は人差し指を立てて、俺の目の前で車のワイパーのように左右に動かした。


「花田くん、夜は駆け足だよ。今すぐにでも自転車で出発しないと追いつかれちゃうの」


 ほらほら乗って。そう言いながら、彼女は俺に荷台へ乗るよう促した。俺は仕方なく荷台にまたがった。彼女はその細い腕に力を込めてペダルを漕ぎ始めた。


 しかし自転車はタイヤを数回転させたところでバランスを崩し、前輪が側溝に吸い込まれ、俺たちは地面へと派手に投げ出されてしまった。


「痛てて…」


「だから俺自転車持ってるって」


「ダメっ、花田くんが自転車運転して、あたしが荷台に乗るから」


 自転車を立て直し、俺はハンドルを握った。こんなんじゃ夜に追いつかれるだろ、そう思いながら、俺はゆっくりとペダルを漕ぎ出した。如月若菜は俺の胴に片腕を回し、もう片方の腕を夜空に突き上げた。


「ほら花田くん頑張って漕ぎたまえっ、夜から逃げるぞー」


 ほとんど連絡を取ったことがなかった彼女と、どうして夜から逃避行しているのか。疑問を覚えたが、考えることをやがて止めた。無粋だと思った。彼女の陽気さが、俺には楽しかった。楽しいことだけが、重要なことのように感じた。


 自転車を漕ぎ、速度に乗ると、風が肌を撫でる。彼女に指示されて、俺は駅前のカラオケ店へと向かった。

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