実話系会談集

ぐおじあ

エピソード1 : 笑う男

Tさん(30代の男性)がその話を語ってくれたのは、工場の作業が終わり、何もすることのない休憩時間だった。Tさんはそこで勤続10年以上になるベテランだが、1年前に中途採用で入ってきたNさんという少し年上の男性のことを、今でもよく覚えていると言う。


Nさんは、常に笑顔を絶やさない朗らかな性格で、仕事にも真面目に取り組んでいた。上司にも同僚にもすぐに打ち解け、彼の存在は工場内の空気を和やかにしていた。


だが、Nさんが入社してから約1ヶ月後、思わぬ事件が起こった。Nさんが製造ラインで大きなミスを犯し、ラインが一時停止してしまったのだ。Nさんの上司であったTさんは、彼と共に工場の部長であるK部長に謝罪をしに行くことになった。ミス自体は大事には至らず、工場の作業ノルマにも影響が出なかったため、口頭での注意だけで済んだ。


だが、謝罪をしている最中、Nさんはずっと笑顔を浮かべていた。


K部長は最初、軽い注意だけで済ませるつもりだったが、そのNさんの態度に腹を立て、怒りが一気に爆発した。何がそんなに面白いのかと、K部長は声を荒げ、NさんだけでなくTさんまでも厳しく叱責された。Tさん自身も、その時のNさんの態度には違和感を覚えた。叱られているのに、彼はまるで気にする様子もなく、ただ微笑んでいたのだ。


その後も、Nさんは何度か小さなミスを重ねることがあった。そのたびに彼は叱責を受けたが、いつも笑顔を浮かべたままだった。最初はその陽気な態度が周りを和ませていたが、次第に同僚たちも彼の笑顔に対して不快感を抱き始めた。


「何で怒られてる時にまで笑ってられるんだ?」


そんな声が同僚の間で囁かれるようになり、気味悪がられたNさんは次第に孤立していった。誰もが彼との距離を取り始め、休憩時間や作業中も、Nさんに話しかける人は次第にいなくなっていった。


だが、TさんだけはそんなNさんに同情していた。孤立してしまった彼を見て、何か声をかけてあげたいと考え、ある日、思い切ってNさんを飲みに誘った。



居酒屋でビールのジョッキを傾けながら、TさんはNさんに尋ねた。


「なあ、Nさん。どうしていつも笑ってるんだ?この間も怒られてる時、ずっと笑ってたろ?」


その問いに、Nさんは一瞬、ジョッキを握る手を止めた。そして、少し間を置いて、ポツリと語り始めた。


「……笑っていないと、僕はきっと死ぬんですよ」


その言葉を聞いた瞬間、からかわれているのかと思ったが、何故かTさんの背筋に冷たいものが走った。Nさんは微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと話し続けた。


「5年前、僕には付き合っていた彼女がいました。同じ職場の同僚で、『将来的には結婚も考えていました。』最初は仲睦まじく過ごしていました。でも、彼女は少し神経質なところがあって、僕は次第にそれが重荷になってきたんです……。そんな時、別の同僚女性から好意を寄せられて……僕はその彼女と付き合うようになりました」


Nさんはその時も微笑んでいたが、その笑顔はどこか張りついたような、不自然なものだった。Tさんは何かを感じ取り、彼が話す言葉の一つ一つに耳を傾けた。


「それからしばらくして、僕は彼女に別れを切り出そうと決めました。彼女のことはもう好きではなくなっていたし、他に好きな人ができていたから。でも、その日、彼女も僕に話があると言ってきたんです」


Nさんは、そこでジョッキを置いた。彼の手はかすかに震えていた。


「彼女が話し始めたのは、僕の浮気についてでした。彼女はずっと気づいていたんです。それでも彼女は僕を責めることはなく、『その人とは別れてほしい』と、ただそれだけを静かに頼みました」


その時のことを思い出すかのように、Nさんは視線をテーブルの上に落とした。


「でも、僕はもう彼女のことを愛していなかった。彼女が泣き崩れるのを見ても、心は動かなかったんです。そのまま彼女を突き放して、僕は別れてしまいました……。しばらくして、彼女の親から連絡がきて、『彼女が薬を大量に飲んで自殺した。』という話を聞きました。」


その言葉にTさんは驚きを隠せなかった。Nさんは表情を崩さず、淡々と語り続けた。


「彼女は遺書に、僕への未練を綴っていました。彼女の家族にも責められ、会社の上司にも追い詰められました。そして、僕が浮気をしていたことが職場中に広まり、僕はその会社にいられなくなりました。浮気相手の同僚にも二股がバレて振られて……僕は人生をやり直すために、このお菓子工場に転職したんです」


そこまで話すと、Nさんは少しだけ笑顔を和らげた。だが、その顔は疲れ切っているように見えた。


「転職初日の夜、彼女が僕の前に現れたんです。ベッドに横になっていたら、部屋の入り口に立っているんですよ、彼女が。僕は驚いて飛び起きて、見間違いかと思って目を凝らして見ましたが、確かに彼女がそこにいました……」


Nさんはふと、Tさんの方に顔を向けた。その時のNさんの目には、深い恐怖が宿っていた。


「僕が叫んだ瞬間、彼女は消えました。でも、次の日もまた現れたんです。しかも、昨日よりも少し近くに……」


その時のことを思い出すかのように、Nさんは小さく震えていた。


「それから、毎晩現れるようになりました。現れる度、少しずつ僕の方に近づいてくるんです。

……そしてとうとう、僕の目の前まで来てしまったあの日……彼女が僕の方へ顔を近づけ、耳元でこう囁いたんです……」





      『笑って』





Tさんは何も言えず、ただ黙ってNさんの話を聞いていた。


「彼女は生前、僕の笑顔が好きだと言っていました。だから、僕は笑うしかなかったんです……。笑うと、彼女は遠ざかるんです。でも、笑わないと、また少しづつ彼女が近づいてきて……」


Nさんは微笑んだまま、Tさんの目をじっと見つめた。


「だから僕は、何があっても常に笑っているんです。そうしないと、彼女はきっと僕を……」


Tさん話し終えたNさんを見てゾクっとした。目元に一杯涙を貯めたNさんの表情は、満面の笑顔だった。



その後、しばらくしてNさんは工場を辞めた。彼がその後どうなったのか、Tさんは知らない。


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