104、「姥堂」と「裁断橋」

第104話

熱田神宮の南側に国道一号線が走り、その南側に旧東海道がいまなお当時の道幅で残っている。その側にコンクリート造りのお堂があり、その下になぜか小さい橋がある。お堂の名は「姥堂」といい、橋の名は「裁断橋」という。

かつてこの地には小さい川が流れ、「裁断橋」はその川にかかっていた。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに同行し、陣中で没した18歳の若者、

堀尾金助の母がその供養のために小さな橋をかけた。これが「裁断橋」である。

やがて33年後に堀尾金助の母は供養のため橋のかけ換えを願い、橋のたもとに碑文を残した。碑文には堀尾金助の供養のために架け替えたとする文が刻まれ、最後に「後の世のそのまた後の世までこの書付を見る者は念仏唱えたまえや三十三年の供養なり」と記されている。

残念ながら堀尾金助の母は橋の完成を見ずになくなったが、養子がその志を引き継ぎ、4年後に完成させた。

東海道を渡る旅人たちはすべからくこの碑文を見ては念仏を唱えて渡ったと言う、そして橋は明治の世になっても引き続き旅人たちを迎えた。

大正時代、川が埋め立てられて橋は近くの「姥堂」に碑文と共に移された。

昭和に入り、大空襲で名古屋城、熱田神宮も焼け落ちたが、「姥堂」も例外ではなかった。本尊はもちろん堂全体が消失したのである。ただ金属でできていた

「裁断橋」の碑文だけは残った。

以来、「裁断橋」は碑文ともども地元の人によって守られてきたが

碑文の腐食がひどくなり、1990年、碑文は名古屋市の指定文化財となり

同時に瑞穂区桜山の名古屋市博物館に移された。

1993年「姥堂」はコンクリートで再建され、その2階に本尊が祭られることとなる。同時に「裁断橋」はその1階に小さく復元され、碑文の複製品が置かれた。正面左手に堀尾金助の母直筆の碑文の複製品が草書でかかれ、右手にその解説文が楷書で記されている。

現在なおその碑文は名古屋市博物館2階常設展示室の一角と熱田神宮の傍らで

私たちに語りかけているのである。

「後の世のそのまた後の世までこの書付を見る者は念仏唱えたまえや三十三年の供養なり」

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