パレスサイドビルの黄昏

第6話

江戸城の北側に平川門という門があるが、江戸時代、この門のわきに「不浄門」と呼ばれる門があり罪人やごみを運び出す門だった。かの浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りかかり運び出されたのもこの門からだった。現在は松の廊下跡は皇居東御苑内に碑があるだけだがそこへ入る門が平川門であり、一般人でもくぐることができる。この平川門の正面にパレスサイドビルディングがある。そして、パレスサイドビルに北の丸公園からつながる橋が「竹橋」である。江戸時代には竹で作られた橋であった。これは有事の際に簡単に壊して城を守るためだがこうした構造の橋は珍しいものではない。江戸城は過去一度も戦乱の舞台となったことがなかったために橋が壊されることなく明治を迎えた。江戸城は二重橋を除いてはどの橋も有事の際には簡単に壊れるようにできていた。二重橋だけは正門として橋桁を二重にしたためにこの名がある。但し1964年に鉄製の橋にかけ替えられたため、現在は二重構造ではない。

この地に1951年、レイモンドによりリーダーズダイジェスト東京支社ビルが建築されたが1963年に取り壊された、そして1964年に毎日新聞と合同で本社ビルの建設を始め

1966年10月1日に完成する。これが現在のパレスサイドビルディングである。完成当時ははとバスの見学コースにまでなった。リーダーズダイジェスト日本支社はこの2階にあったという。これに先立ち同年3月には地下鉄東西線竹橋駅が開業している。パレスサイドビル完成に合わせて東西線は大手町駅まで延伸開業しているがこれは竹橋駅とパレスサイドビルの工事が一体化していたことを意味する。現在でもパレスサイドビルの地下から竹橋駅に抜ける通路が残っている。

私は名古屋時代、パレスサイドビルとはどういうビルであるかと聞かれると説明に困った。それは「毎日新聞本社」とだけ言うには余りにも多くの機能を備えていたからだ。パレスサイドビルは当初は、はとバスの観光ルートにまでなるほど観光客であふれていた。現在でも一階と地下一階は商店街になっており、誰でも自由に出入りすることができる。これは毎日新聞社が「誰でも気軽に出入りできる」社風を目指しているからである。だから何度も各地の毎日新聞社はテロの標的にされてきたが、その度に警備体制の強化はしたものの建物内への一般人の立ち入りを禁じることはなかった。

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