第二章 再戦前夜

第1話 

「なーにが定めか。そんなもん、死んでから気付けばいい事じゃ。ご大層な文句を使って能弁垂れてもな、高校を辞める理由にはなりゃせんぞ」 

「そうよ、愁一郎しゅういちろう君。継重つぐえさんと約束したんでしょ? 高校は卒業するって。だったら中退は諦めなさい」

 陽の落ちかけた食堂の一角で、僕はこの屋敷の主である老婆、通称『族長』と、その世話係の真知まちさんからお叱りを受けていた。

 発端は今朝。職員室前の廊下にて、高校中退を考えていると僕が担任にポロリこぼしたことにある。寝耳に水だった浅井女史。勤続三〇年のベテランの風格もなんのその。こけしみたいな静かな笑顔を引きつらせた彼女は、その日の昼に早速行動を起こしてくれた。

「谷原君は成績もいいですし、まだ入学して三カ月しか経っていないじゃないですか。いくら将来の夢が決まっていてそれに高校卒業証明書が不要だからって、中退は早まった選択だと私、思うんです。もう一度ご家族でよく話し合われて、それでも中退をご希望なさるなら、相談に乗りますから」

 などと、僕の下宿先として提出してある接骨院に、震える声で電話をかけたのだ。そしてその電話を受けた接骨院の主が、僕の本当の下宿先であるこの大屋敷に報告の電話をした、というわけである。そちらの問題児が爆弾発言をしたようですよ、と半笑いで。

 真知さんは、この食堂の隅にある固定電話で報告を聞いた。こうなることはある程度予想されていたらしく、彼女は「そらきた」とばかりに、僕たち日本古来の民族『真識人ましきびと』の元締めである族長に相談した。それで、件の問題児の父親が長期出張中の今は、ひとまず話だけでも聞いて、必要とあれば説得を試みよう、ということになったらしい。

 屋敷の玄関で待ち伏せされ、スクールバッグを下ろす間もなく、後ろ編み込みのちっちゃな結び目を引っぱられて食堂まで連行された僕は、そのまま一番奥のテーブルに着席させられた。そこからは、背中に机を背負ったみたいな円背と白内障を患った老婆と、その老婆よりも頭二つ分くらい大きい程度の小柄な中年女性が発する凄まじい圧力に怯えながら、高校中退を望む理由を訴える運びとなる。

 具体的には、自分も父と同じように、自然療法のプロフェッショナル集団である真識人の一人として生きようと決意した時の喜びと覚悟を熱弁したのだ。

 残念ながら、せっかくの熱弁はつい先ほど、「そんなもん」の一言と、最大の難所である父との口約束の提示によって、見事に一蹴されてしまったわけだけれど。

 感動を誘う策戦が破れた今、僕に残された道は、ただ“ごねる”。それだけだ。

「だって、やっぱりどう考えても無駄ですよ。卒業まで三年もあるんです。三年あったら、どれだけの治療手技や哲学を学べて、施術経験が積めるだろうって考えたら、もうなんか本当に、高校生活が無駄にしか思えなくて」

「無駄無駄って、あなた。十六歳の若い子が……」

 身も蓋も無い言い分を聞いた真知さんが、呆れたようにこめかみを揉む。

 一方、族長はというと、机の隅に置かれていたティッシュを一枚ぬきとり、それで鼻をぐりぐり掃除しはじめた。

「たった三年。ワシにとっちゃあ、鼻糞ほじる時間と同じじゃわ」

「すみません。僕は健康寿命八〇年がやっとの人間なんで」

 僕が言うなり真知さんが、んまっ、と目を吊り上げた。ティッシュ越しに鼻をほじり続ける族長の肩にそっと手を乗せて、失礼を諌める。

「駄目よ愁一郎君。族長を妖怪呼ばわりしちゃ」

 いやこれはある意味、真知さんの方が失礼だ。

「族長を千年妖怪って呼んでいるのは父の方ですが」

 僕は即答した。族長が生きているのは千年どころじゃないという驚愕の事実は、真識であれば皆が知っているので今更口にはしない。

 日本列島が存在していた頃から老人をしていたという、真識の創始者、族長。そんな、文部科学省がその存在を知ったら天然記念物に指定しかねない珍じゅ……希有なお方に、僕は机に額を打ちそうなほど深く頭を下げた。

「お願いします族長。父さんを説得して下さい。僕は別に、医者とか柔整師とか、そういう国家資格はいらないんです。肩書は民間資格の整体士でいいから、真識の一施術者として、やっていきたいんです」

「人の為に仕事をしたいというのなら、人の言う事は聞くもんじゃ」

「僕は人の為に施術家になりたいんじゃなくて、施術そのものが好きなんです」

「自己満足の施術しかできん未熟者じゃあな、真識の名を語るのは許してやれん」

「許すも何も、世間様に語っちゃ駄目なやつじゃないですか、その名前」

 会話が平行線をたどりはじめた頃、真知さんが割って入る。

「はいはい、もう結構! 族長もいいかげん、鼻をほじるの止めて下さいな」

 続けて、僕にはっきりこう告げる。

 施術師見習いの真識人、谷原たにはら愁一郎君。君の高校中退は、君の両親を含めここの誰一人として認めません。

 真知さんはあくまで同胞。身内でもなんでもない。強いて言うなら、おかみさん、みたいなものだ。その人がここまではっきり否と言い切ったということは、僕の高校中退願いは、一考の価値すらない案件なのだろう。僕は落胆の印に、椅子の背もたれに体を預けて天井を仰いだ。

「十六歳の小童らしく、ぎゃーるふれんどでも作ってみろ。村に連れて来るのはご法度じゃがな」

「そうね。好きな娘ができれば、高校生活も楽しくなるわ」

 ガールフレンドです、族長。しかもその呼び方が流行したのは多分、昭和あたりです。それから真知さん。入学から二カ月以上経過しても、僕には彼女どころか友達すらいません。周囲からの浮き具合は、小・中学校時代よりも甚だしいです。恐らくそのせいで、今日は変な人に声をかけられました。クラスメイトの女子だけど、ちょっと厄介な感じなので友達にはなりたくありません。この人のせいで、僕の中退願望に拍車がかかったんです。

「すみません、多分無理です」

 折角のアドバイスに応えられそうもなく、僕は天井を仰いだまま二人に謝った。


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