第五章 たつみなるを忌む 1
「何だとぉ?」
流石の俺も困惑せざるを得なかった。
「さらわれたって、どういうことだ」
「そのままの意味だ。私がもっと注意を払っていれば良かったのに。気付けば屋敷のどこにも姿が見当たらなくなっていた」
「それだけなら、まださらわれたと決まったわけじゃねぇじゃねぇか」
散々外へ抜け出して来たあの娘のことだ。何も告げずに能天気にどこかをほっつき歩いているということも十分考えられる。落ち着かせる意味も込めて、そう言ったのだったが、おもと丸はかえって激したようなまなざしを向けた。
「私も最初はそう思った。もしかしたら私を置いてこの家を訪ねておられるのかもしれない、と。何と愚かだったことか。もっと早く捜索に動き出すべきだった。そう気付いたのは、屋敷に投げ文がされているのを侍の一人が見つけてからだった」
おもと丸は血の気が失せるほど握り締めた拳で自らのこめかみをたたいた。
「間違いなく姫ご本人の手跡だった。そこには姫ご自身が無事であることを知らせる文と、その後に賊が書き記すよう命じたのであろう、姫の身柄と交換に支払えという身代金の額が記されていた。おかげで屋敷の中は大混乱だ。日々の生活もぎりぎりのところで回っているのに、突然高額の金銭を要求されても支払う余力など私たちの屋敷にはない。こういう時に頼りになるのが乳母夫だろうが、日ごろ姫の元にもろくに参上しない男だ。外聞をはばかって、事を荒立てるなと言うばかりでまるで役に立たない。本当に情けない……」
おもと丸の忸怩たる思いは痛いほどに伝わってきたが、そんな緊急時に何故俺を訪ねてきたのかという疑問がよぎった。他のことなら協力してやるのもやぶさかではないが、殊に問題が金銭だというのであれば、残念ながら俺に出来ることなど何もない。それはおもと丸だって当然承知の上だろうと思っていたのだが。
そうした不審がる心情を読み取ったのか、おもと丸は袖から、強く握りすぎたのだろう、しわの寄った紙を取り出した。
「実とは投げ文は身代金を要求するものの他に、もう一通あったのだ。宛先は『歌の師へ』とある。屋敷でも手習いはされていたが、姫がわざわざ師と断るのは好忠、お前しかいない」
俺はそれを受け取って開いてみた。
「……どういうことだ?」
そこには何の変哲もない歌が四首、連作のように並べて記してあるだけだったのだ。
秋の野の千々の錦をながむればかすむみどりの春はものかは
川つ瀬のなみを枕にむすびつつ浮寝はゆめもさむる葦原
はらひわぶる袖置く露の結ぼほれ君が面影たつみなるを忌む
印南野(いんなびの)の鹿鳴く声のふる秋にしとどにぬれる萩の下露
「分からない。だが、姫が何のお考えもなしにこんな文を添えるとは思えない。お前だけに通じる意味があるんじゃないか。そう思ったから、ここまで持って来たんだ」
確かに、あの娘は変わり者だが、愚かではない。わが身に危険が及んでいる状態でこれらを書き送ってきたのであれば、そこには何等かの意図があるのであろう。
しかし、どう見ても、秋にまつわる習作を並べてみましたという風にしか受け取れない。秋の歌について何か殊更に語ったことがあっただろうか?
そんなことを考えながら繰り返しその四首を吟味していると、ふと引っかかるところがあった。
かは……。
川……?
そして、やっと気が付いた。
「つらね歌だ!」
「何?」
きょとんとした目を向けるおもと丸を若干じれったく思いながら、俺は説明を加えた。
「前に順が話しただろ。一首の終わりの二字を、次の一首の頭に受けて続けていく連作だ。これもそうなっている。かは、はら、いむという風にな」
いや、待てよ。俺は今、何と言った?
自分で口にした言葉を反芻して、はっとした。おもと丸も同様のことに思い至ったらしい。俺とおもと丸の声がそろった。
「河原院(かわらのいん)か!」
「河原院だ!」
かつて源融(みなもとのとおる)が造営した大邸宅。
今や見る影もなく荒れ果てて、もののけが住まうとも噂されている。
「なるほど。賊が拠点を構えるにはうってつけだ。一刻も早く姫をお助けに上がらなければ」
そう言って飛び出していこうとするおもと丸の袖を、今度は俺が引き止めていた。
「どうした?」
怪訝そうに振り向くおもと丸に、俺は返す言葉をためらった。即座に言語化するにはあまりにかすかな直感のようなものだったからだ。
本当にこれだけなのか? 何か見落としていることがあるのではないか?
河原院は確かに往時の見る影もなく荒廃している。しかし、無人というわけではなく、管理を任されている持僧がいる。恵慶が親しくしており、共に河原院で歌合をしたなどと自慢話を聞かされた記憶があった。
流石に賊が入り込めば、その僧が気付いて検非違使に通報するだろう。万が一気付かなかったとしても、そうした危険性のある場所を賊が拠点に選ぶとは考えにくい。
そんなことを考えながら文を再度見ると、三首目の下句だけ墨がかすれて、放ち書きになっているのが目に留まった。ただ単に墨が足りなくなっただけかとも思っていたが、もしこれが偶然ではないのだとしたら。
「……物名歌だ」
「何?」
「河原院の辰巳の方角だ。あそこなら賀茂の河原の近くで、打ち捨てられた廃屋も多い。人さらいにとっては恰好の隠れ家だろう」
俺は文を懐にしまい、おもと丸を促した。
「行くぞ。俺も手伝う。手分けした方が効率的だ」
西山の方を見遣った。黒い雲の切れ間から落日が山のあなたへ沈もうと姿をのぞかせている。完全に日が落ちてしまえば、賊は夜闇に乗じてより安全な都の外へと居所を移そうと考えるかもしれない。
時間的猶予はさほどない。
俺とおもと丸は連れ立って、闇がひたひたと浸しつつある小路をより暗い方へと駆けた。
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