第9話(三人称視点)
イルローゼは王城のとある部屋の扉をノックする。イルローゼからすればこの部屋でのノックは挨拶に過ぎないので、部屋の中から返事が聞こえるより前に扉を開ける。
扉を開けると前からぶわっと風が吹き込んで、イルローゼの寝巻のワンピースが捲れる。イルローゼは寒そうに二の腕を摩りながら部屋の中心へと向かう。
揺れるカーテンの隙間からは月明かりが覗き込んでいる。彼女たちの身長よりも大きいガラス張りの窓は、ガラス細工が施されていて彼女が普通の人ではない事を表している。
その隙間に佇む女はイルローゼを見て呆れたような表情をしている。
「窓を開けているの?今夜は冷えるのに」
イルローゼは口をガタガタと振るわせそう言った。
「返事が聞こえてから入ってきてください」
抑揚のない声で答える女はイルローゼに振り向くことなく、月明かりに照らされながら窓を閉める。
「エミリーと私の中じゃない」
「私にもプライベートな時間があります」
彼女はエミリー。男爵家の末っ子で、イルローゼとは同い年だ。
ギアギュート家に仕える侍女として男爵家から送り込まれてきたが、イルローゼの父が同い年ならとイルローゼの側仕えに抜擢されたのだ。
側仕えとしては優秀で、イルローゼに危険が迫れば身を挺して守り、イルローゼが棍詰めて執務に取り組んでいるときは身の回りのことを、そして友人としてイルローゼの相談に乗っていたりする。
スタスタとスリッパを床に擦らせながら歩くエミリーは、寝台に腰掛ける。
「そんなことより!エミリー!エミリー!聞いて!」
イルローゼはぴょんぴょん可愛らしく足踏みをしながらエミリーの肩を揺さぶる。
「そんな叫ばなくても、ここ私の部屋ですし聞こえてますって。こんな夜に押しかけて叫ばれる身にもなってください」
うるさそうに眉をひそめるエミリー。
キラキラと輝くイルローゼの瞳を疎ましそうに見てため息を吐き、座ったばかりの寝台から立ち上がる。
「それで?今日は何なんですか。ニアンベル殿下の惚気話なら聞き飽きましたので」
イルローゼは二人掛けのソファに座り、その隣に座るエミリーはそう言いながら側仕えとして、花茶をカップに注ぐ。
少しソファより高いテーブルに肘をつきながら、何を話そうかイルローゼは迷っている。
カップの水面に映るイルローゼの顔は高揚している。反対にエミリーの表情は死んでいる。
「違うのよ……アイザック殿下とキスしちゃったのよー!」
イルローゼは顔を手で隠しバタバタと足を動かす。
「は……?」
エミリーは困惑する。
当然だ。最近までベルのことしか話してこなかったイルローゼから別の男の名前が出てきたのだ。
「そんなに狼狽えてどうしたのよ。珍しいわね」
狼狽えるエミリーを見てイルローゼは面白そうにニヤニヤと視線を送った。
エミリーは逆になぜイルローゼがそんなに普通なのか理解できていなかった。
「え、ベル殿下は?」
「え?あぁ、もうどうでもいいわ」
さっぱりとした声色に、エミリーはこれまでのニアンベルの愚行からやっと解放されたのかと胸を撫で下ろした。
「まぁ、私はあんな奴って思ってたから丁度いいです。それで?なんですって?」
エミリーは話を戻そうと聞き返した。
「なんかアイザック殿下が積極的でね、もうさっきからドキドキが止まらないの」
エミリーの顔が引きつっていることはイルローゼは気づかない。ニアンベルよりヤバいやつに捕まってしまったのではないかと一瞬心配したが、イルローゼが満足そうなので何も言わないことにした。
「一目ぼれってやつね……。それで?自慢だけしに来たわけじゃないでしょうね」
「うん……」
イルローゼは一通りのことをエミリーに話した。
エミリーは時折顔を傾げながら、頷いたり、花茶を飲んだりしていた。
「つまり、婚約破棄のために偽装の恋人になってもらうのにアイザック様の恋情が邪魔ってこと?」
「そこまでは言ってないわよ!」
イルローゼは激しくエミリーを揺さぶる。
「そう聞こえるし、アイザック様のためって言ってるけど、結局自分が可愛いだけじゃない」
「そんなことは」
イルローゼは俯きながら、否定する言葉を探すように口をモゴモゴさせている。
いつものことかとエミリーは自分の役目を把握して、そうあろうとイルローゼの背を押すような言葉をかけることにした。
「だったら私も好いております!でよかったじゃない。受け入れるべきだったのよ。なに、自分もあの阿婆擦れみたいに非難されるかもって?悲劇のヒロイン気取りはやめるのね、イルはあいつらと戦うの。手段を選べるほどここに味方はいないわよ」
エミリーはイルローゼの目に迫力があるように映るために前のめりになりながらそう言った。
「手段を選ばない……」
「はぁ、わかったらアイザック様にちゃんと想いを伝えること」
「想いってどうやって伝えるの」
「イルからキスでもしてみれば?」
足をバタバタさせはしゃぐイルローゼの隣で、エミリーは静かにほほ笑んだ。
「あ、あとね、アイザック殿下と明日デートすることになったの!だから、コーデとか任せてもいい?」
「絶対にアイザック様に想いを伝えると約束してくださるなら構いませんよ」
テーブル目一杯に腕を伸ばして顎をつき、項垂れたような体勢でイルローゼは明日のことを考えていた。エミリーはそんなイルローゼに何も言わず、ただ静かに見守った。
しばらくすれば、イルローゼは机に突っ伏したまま眠りについてしまった。
ゆっくりと物音をたてぬように先ほど閉められた窓が開く。
「寝たか?」
夜の森のように静かな優しい声でそういう男。
「えぇ、寝たみたいです」
「ふん、随分とお前には子どもらしいのだな」
エミリーには随分と冷たいようで、腕を組みながらツンケンした態度で部屋へとズカズカと入る。しかし、その姿は隠密行動に慣れているような、足音や服の擦れる音でさえ聞こえない。
「昔からそうです。羨ましいのですか?」
「ちっとも」
その言葉とは裏腹に、表情は拗ねているのがまるわかりだ。
「俺が運ぼう」
そう言い男はイルローゼを優しく抱き上げ、エミリーの寝台へと運んだ。
「ありがとうございます」
エミリーはその男にそこは私の寝台だということができなかった。いや、言えるような相手ではなかった。
しかし、エミリーはイルローゼの顔に近づく男に驚いて男の肩を横から咄嗟に掴んでしまった。男は大層驚いたような顔をして、なぜ止めると言わんばかりの目でエミリーを睨んだ。
「……キスは二人だけの時にしてください。お休みなさいませ」
そう言いながらエミリーは男を寝台から追い出し、部屋からも追い出した。
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