第5話

 あれから数日たったころ、私は朝から執務室に久々にこもって仕事を片付けている。


 私は王妃になるための準備として、ベルと二人で少しだけ簡単な政務に携わっていたのだ。しかし、マリアンヌが来てからベルが全く政務に手を付けないので私に多めに仕事が回ってきているのだ。一日かけて終わればハッピーなほどなのだ。えらいですわ、私。


「イルローゼ様ぁ、ベルがいるのにアイザック殿下と親しくなっているんですって?先日も二人で庭園を仲睦まじく歩いてたとか」


 この阿婆擦れ女。私が一度この執務室に善意で招いてしまったばかりに、何を勘違いしたのか無断で出入りするようになってしまったのだ。


 この阿婆擦れ女、ここにきては茶を出せ、カードゲームの相手をしろ、自分の自慢話を手を止めて聞け、など酷い要求の所為で度々徹夜で仕事を片付けることが増えた。


 今日は言われる前に紅茶を出してソファに座らせた。


 こんな好待遇をするのにも理由がある。今日はザック殿下と昼食の約束がある日なのだ。昨日の夜にも手を付けて半分終わらせたのだから昼前には終わらせなければいけない。この女の自慢話など聞いている暇はないのよ。


「ベルが泣いてたんですよぉ?婚約者なのに酷ーい」


 マリアンヌは後れ毛を指でくるくるとまわしながら口を尖らせて言う。


 私はこの女に耳を貸さないように必死に手を動かす。ベルがどうなろうが知ったことではないのだ。


「ベルの慰め方、知ってますぅ?」


 マリアンヌは私が親切心で出した紅茶をカップに注ぎ、角砂糖を飛沫が出るように入れる。


「知らないわ、あなたが慰めてあげれば解決でしょう?聖女なんですから」 


「それはそうだけどぉ、ベルに解決策を提示して導いてあげればすごく喜ぶの」


 少し高揚した声色でそう話す。


「まるで子供ね。マリアンヌが母親みたい」


 阿保らしいと思ってしまった私は、鼻で笑ってから蔑む様に言った。


 マリアンヌはカップを持ってソファから立ち上がり、片していた書類にわざとらしくカップをひっくり返す。私は唖然として書類を庇うことができなかった。


「そぅ、だから馬鹿なベルが許せないの」


 ベルが許せないですって?私じゃなくて?


 いや、そんなことはどうでもいいですわ。この書類、簡単な物とは言っても直接陛下に提出するものよ?まあこれ、初めてではないですけれど。陛下はどなたかに呆れながら私を何度も許して下さった。


 マリアンヌはそんなことも知らずに私に怒られた、と言ってベルに泣きつき私がベルから嫌味を言われ怒られるのだ。後始末もしないで逃げけるくせに。


 でももうベルの婚約者をやめると本人に宣言したのだ、もうベルに怒られる筋合いはない。


「やっ、ごめんなさぁい」


 書類に紅茶がかかってから数秒してわざとらしく謝り始めた。思ってもいないことを口にして……なんでここまでして私に関わってくるのよ。やりすぎたらあなたの首が飛びかねないのよ。


「反省の気持ちがあるなら、あなたが拭くべきよ……」


 これからはあなたの仕事よ、と言いそうになったが急いで飲み込んだ。ここで言ってしまえばマリアンヌは喜んでめんどくさいことになりかねないし、婚約破棄を宣言しただけで正式に決まったわけではないのだ。ベルからの婚約破棄宣言までは耐えるのよ。


「やだぁ、わざとじゃないのにどうしてぇ?ドジだって言ったじゃない」


 マリアンヌを見ればいつもの柔らかな表情とは打って変わって神妙な面持ちをしていた。そんなマリアンヌに怖気付くわけにはいかないわ。


「ドジなど関係ありません。人のものを汚してしまったら、汚した人が拭くのです」


 引出しから事前に侍女からもらっていた布巾を取り出す。


 綺麗に折りたたまれた布巾を差し出せば少し驚いたような顔をするマリアンヌ。そうよ、いつもマリアンヌに優しくしすぎていたのよ。ベルの隣を奪われるかもって怯えて強気でいけなかったのよ。


「拭きなさい!!」


 私は腹の底から声を出した。窓の外にある木から鳥が飛び立った気がする。マリアンヌは少し肩をあげて目を丸くして私の前に立っている。


「わざとじゃないからって、責任がないと思わないで」


「不慮の事故に責任が発生するの?まるで私がわざとやったって言いたいみたい……ひどい!」


 マリアンヌは手で顔を覆いながら床に座り込む。迫真の演技だわ。よくもまあそこまで演技に熱が入れられるわね。どれだけベルが好きなのよ。


 とはいえ、マリアンヌがわざとやった証拠などどこにもない。それに約束の時間が刻一刻と迫ってくる。座り込むマリアンヌを立たせようと椅子から立ち近づけば、マリアンヌが机の上に置いてある紅茶の入ったポットを掴み私に投げつけた。


 ポットは私のドレスすれすれを通り、壁にぶち当たって砕け散った。紅茶は投げられた際に空中に飛び散り私のドレスに染みを作った。


 ひいいいいいい!こわ!何この女!やばいですわよ!


 驚きすぎて声が出なかったために、心の中でそう叫び続けた。手も震え心臓の音が鳴りやまない。緊張でか目がかすむ。でも怯むわけにはいきませんわよ!


 「壁と床はわざととは言えませんでしょう?」


 私は待っていた布巾を立ったまま、マリアンヌの顔めがけて投げつける。


 布巾が舞い降りた頭は乱れ、恐ろしいほどに無気力であった。


 「貴女物を投げるの向いていませんわね。あとこの部屋、陛下がベルにと明け渡している部屋ですの。いわば貸し与えられているのです。こんなに汚しては元通りにはいかないでしょうから、陛下に書類の件と共に仔細を報告させていただきます」


 私は今までのうっ憤を晴らすように畳みかけてそう言った。マリアンヌは黙りこくったままゆっくりと立ち上がり私を睨んだ。


 「そう、好きにすればいいわ――!」


 マリアンヌはそう泣き叫びながら、執務室から急いで逃げていった。


 「あ、にげた……」


 私は荒れた部屋を見渡しながら、時間を確認するために懐中時計を見る。

 

 「二人でやればお昼には間に合いましたのに……」


 長針は十二の手前まで来ていた。このまま部屋を去るわけにはいかないので、できるだけ早く行けるように片付けに取り掛かった。



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