海のベット、月夜に手を伸ばす。

 11月4日、夜9時、堤防。


 近くに光源がないからか、いつもよりも夜空の星がくっきりと明るく見える。都市の光が星や月を見えにくくする光害というものだ。


 やはり、光は闇があるから輝くもののようだ。


 それでも、月だけは地球がどれだけ明るかろうと輝くだろう。これは月を映し出している太陽の光を褒めたたえるべきなのか、太陽の光をこれだけ幻想的に映し出している月を褒め称えるべきなのか迷いどころである。


 たとえ、自分の光じゃないとしても、あれだけ明るく、太陽とは違った魅力を地球に振りく月はなんと美しいものだろうか。


 それでも、皆はその月の魅力に気が付かぬまま、夜を明かす。月が光り輝く時、人は眠ってしまう。地球をぐるりと1周しても、その誰もが一生懸命光り輝く月に欠伸を浴びせているのだ。


 月がどれだけ頑張っても、日の目を浴びているのに、日の目を浴びることは無い。


 皮肉だ。それでも、事実だ。それが月の宿命で、運命だ。


 それでも、僕だけはその月の魅力に気が付いている。それが月にとっての救いになるはずだ。


「さすがに冷えるね。」


 彼女の声だった。今は光が無いから、いつもの白いワンピースが闇に染まっていた。


「さすがにですか?」

「ええ、慣れる暇が無いから、いきなり寒いときついわね。」

「なら、それが生きている証拠ですよ。」

「……そうね。」

「そろそろ聞いてもいいですか?」

「……何?」

「いつ死ぬんですか?」


 彼女は少し黙る。僕は手に持った釣り竿を持ったまま、海を見つめていた。


「来年は生きていないかな。」

「意外とぴんぴんしてますね。」

「だから困るのよね。


 いきなり死ぬってことがとても恐ろしい。」

「もうどうにもならないんですか?」

「あるにはあるけどね。最近発見された外科手術の方法で、成功率はかなり低いわね。君の釣り竿に魚がかかるくらいの確率くらいかな。」

「じゃあ、死ぬじゃないですか。」

「冗談になってないわね。」

「冗談を言ってきたのはそっちでしょう。」

「それもそうだけど……。」

「隣、座りますか?」

「……ええ。」


 彼女はそう言って、僕の隣に座った。だが、彼女はいつものように腕が当たる距離には座らなかった。彼女は僕と少しだけ距離を開けて座った。


「なんで分かったの?」

「なんとなくです。」

「なんとなく分かっちゃったか。


 そんなに悲壮感を隠しきれてなかった?」

「多分違うと思います。


 本当になんとなく、自分の頭で考えることもなく、直感のように感じただけです。」

「直感。結局、どれだけ頭で考えても、それに勝るものはないわね。」

「だから、僕がいますることは何だろうなってのも、直感で決めます。」


 僕はそう言って、釣り竿を彼女のいない方の地面に置いた。そして、僕は空いた手で、彼女の背中に手を回す。


 そして、彼女の背中を強く押した。


 彼女はバランスを崩して、黒い水面へと頭から落ちていった。彼女の悲鳴と遅れて、水に彼女が落ちる大きな音が響き渡った。


 しばらく彼女が海中でもがく音が聞こえる。手で水を打つバシャバシャした音が聞こえる。


「ちょっと……はあ……いきなり……溺れたら、ごぼ……どうするのよ。」

「ちょっとそこどいてください。」


 僕はそう言って、堤防から海へと飛び降りた。堤防から海に落ちる時の浮遊感は、まさにどこにも属していないような解放感だった。


 そして、風を切るような浮遊感の後、足先から冷たい海水がまとわりついていく。その海水と空気が混ざり合うノイズが聴覚を奪う。一度、海の中に沈んだ体は海に嫌われるように、海面へと弾かれる。


 そして、海に弾かれた僕は思い出したように、息を吸う。体は縮む程冷たくなっていた。


「はあ……はあ……、ふう……寒っ!


 ……なんだ、足着くじゃないですか?」

「嘘……。」


 彼女は海底に気が付いて、ゆっくりと海に立った。星と月の光が照らす彼女は、艶のある黒髪から海水が滴り落ちていた。


「服がとっても重い。」

「皮肉ですね。余計に重力を感じるなんて。」

「海のベットは沈むのね。」

「いや、まだ海のベットで寝られていないじゃないですか?」

「……?」

「僕の真似をしてください。」


 僕はそう言って、ゆっくりと体を海面に倒した。海のベットに体を預ける。


 海は僕を重力から解放した。


 僕が彼女の方へ目線を送ると、彼女もゆっくりと海のベットに体を預ける。そして、誰からもどれからも解放された彼女の手のひらを僕は手繰り寄せた。


 僕が彼女の手を握ると、少し遅れて、彼女は手を握り返す。


「ラッコみたい。」

「ラッコは寝る前に、こんな景色を見ているんですね。」

「……すごいね。


 月って、こんなに明るかったんだ。」

「どうですか? 今、太陽のこと考えてます?」

「考えてるわけないじゃない。」

「そうですよね。


 だから、月は月なんですよ。


 他の誰でもない。たとえ、太陽の光を借りていたとしても、月は自分の光り方をしているんですよ。


 ゆえに、美しい。


 忘れても忘れない。


 いつでも月の光が輝いている訳じゃない。心の中からその月の光が消えうせることもある。


 それでも、月は夜を照らしてくれる。


 皆に目を向けられずとも、月は夜を照らしてくれる。それが誰かの闇を掃う光になる。


 皆に愛されなくても、いつまでも愛されなくても、きっとその光は誰かの一時を照らす光として愛されるんだ。」


 僕の発言の後、しばらくの静寂が流れる。


「……私、生きたい……。」

「生きたらいい。」

「でも、私にはもう、生きるために死ぬか、死ぬために生きるのかの2つしかない。」

「手術するかしないかの2択をそう表現しているなら、少し違うよ。」

「私、分かるの。手術は失敗する。


 私は実験モルモットのように、体を切り刻まれて、死ぬの。」


 彼女は僕の手を強く握りしめた。僕は握られていない手を月に伸ばす。


「僕は月を手に入れられたと思う?」

「どういうこと?」

「そのままの意味です。」

「手に入れられるわけがないでしょ。こっちから見たら、月は手から出てるし。」

「それでも、僕には月が見えない。だから、手に入っている可能性はあるだろう?」

「全く意味が分からないんだけど。」

「シュレーディンガーの猫はね。見えない限り、猫は死んでるし、生きてる。」

「だから、手の中に月は手に入っているってこと?」

「見えない限り、可能性は0じゃない。


 でも、手を伸ばさなければ、月が手に入る可能性は0だ。」

「だから?」

「君が生きるために生きる可能性も0じゃない。」

「……。」


 僕は伸ばした手を開く。残念ながら、手の奥に月が光って見えた。


「けど、今回は駄目だったみたいだ。」

「……負けた。初黒星。」

「……やっぱり、負けるより勝つ方が嬉しいですね。


 大金星です。」

「輝いてるよ。君は。」

「光栄です。」

「私は生きるよ。生きるためにね。


 ……だから、最後に、これだけ……。」


 彼女は僕と握った手を引き寄せた。そして、僕の体を沈めるように、僕のお腹にまたがった。彼女は海に沈む僕の顔に、彼女自身の顔を近づける。


 そして、僕たちは海のベットに沈みながら、唇を重ねた。


 塩辛い海水で、とてもレモンの味とはいかなかったが、彼女の柔らかい唇が沈むほどくっついていく。海水の冷たさすら分からなくなって、彼女の体温だけが僕を温めていた。


 僕たちは息も忘れて、海のベットで溶けあった。


 僕はゆっくりと目を閉じた。

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