海のベットで寝かせて

阿僧祇

10月30日、未だ夏休み。

 10月30日、未だ夏休み継続中だ。


 もう残暑などというものは消え失せて、いつものように夏服の半袖を着ていれば、秋の息吹が肌を撫でる。


 肌寒いとは言い難いが、そろそろ半袖は止めておけと秋の風が忠告する。僕はその忠告に従って、半袖はもう来年まで納戸の奥に封印した。


 そんな夏休みと言うより冬休みの方が近いような時期に、僕はまだ夏休みを満喫している。もちろん、僕の通う中学校が定めた夏休みは8月の下旬に終わっている。


 でも、少しくらい自分で延ばしても良いではないか。


 別に学校でいじめられているとか、馴染めないだとかいうことは無い。だが、少し考える時間が欲しかった。


 どうせ中学校は義務教育だし、よっぽどのことが無い限り学年がダブることにはならないだろう。別にもう1度、中学2年生をやり直したっていいが、あまり気の進むようなことではないな。だから、いつかは学校に戻らなければとは思うのだが、どうも行く気にならない。


 だが、僕はその延長した夏休みをグダグダと家で過ごすことはしない。


 第一、家にいると親に何か言われそうで嫌だ。親は僕が学校を休んでいることは承知の上で、親からは僕が学校に行かないことへの暗黙の許可が下りている。


 だが、家でだらだらと過ごしていれば、親は将来有望なニート・プー太郎に何も声を掛けないはずがない。心配の声を掛けたり、何か家の手伝いを要求するだろう。それをしなくとも、親の嫌なオーラがムンムンの空間では息苦しくて、ゆっくりできたものではない。


 だから、僕は家にあった釣り竿を持って、外に出た。


 最寄駅から5,6駅ほど進んだところにある漁師町に向かって、今、僕は誰もいない堤防に座って、海に針を落としている。


 ここなら、親の目も人の目もない。ただ自分1人で世界に解放されている。


 集中することは釣り竿が引かれていないかだけだ。後は海風に吹かれながら、のんびりと自由に考え事をしていればいいだけだ。見渡す限りの水平線のように広がっていく思考がいつかまとまることに期待して、待つだけだ。


 今日はもう既に3時間経っている。


 未だ魚はかかっていない。


 太陽は真上に上がって、照りつけているが、夏に見せた全盛期の勢いは全く無くなっている。いまなら、太陽よりも北風の方に軍配が上がるだろうな。


 僕は弱々しい太陽に向かって、大きなあくびを1つ浴びせた。


「そんなに口を大きく開けて、蛸壺たこつぼ漁でもしているの?」


 僕は不意に掛けられた言葉の主の方へと振り返る。そこには白いワンピースと長い黒髪を海風で揺らす少女が凛と佇んでいた。


 少女と言えど、僕よりも年上なんだろうけど、どこか幼い顔立ちと白いワンピースが純粋な少女らしさを感じさせた。


 特筆すべきことはとても背景の海が似合うような透明感のある美人であることだ。


「ええ、全くその通りです。


 あまりにも魚が獲れないんで、このまま口を開けたまま深海に潜ろうとしていたところですよ。」

「へえ、本当にそうなんだ。


 なら、ちゃんと逃がさないようにね。それと、タコ墨はイカ墨と違って、毒が含まれているらしいから、死なないようにね。」


 その少女はそう言って、こちらに近づいて来る。


「横、よろしい?」

「どうぞ。ここは僕の敷地じゃありませんからね。」

「それもそうね。」


 彼女はそう言うと、海に白いサンダルを履いた足をぶら下げるように、僕の横に座った。彼女は僕たちの腕同士が当たるような近い位置に座っている。彼女の腕は細く、冷たく、柔かった。


「パーソナルスペースって言葉知らないんですか?」

「あら、お嫌いかしら? 君の好みに合わせた行動だと思ったけどね。」

「……。」

「見た通りのうぶな少年だったみたいね。」

「僕の好き嫌いは置いといて、そんな近づかれると釣り竿を上手く扱えないんで、離れてもらえます?」

「あらそう? こんなチャンスを逃すから、魚にも逃げられるのよ。」

「魚と人を同一視するのは嫌いですね。」

「そうかしら? どちらも同じ脊椎動物だし、目も口も鼻もあるけどね。」

「そんな形態的な話をしているんじゃなくてですね。魚と人は決定的な違いがあるじゃないですか?」

「何?」

「魚は言葉を喋らない。」

「君はその時点でこの議論に負けているけど、一旦、君の意見を聞こうか。」

「……なぜもう負け試合になっているか分かりませんが、僕の意見を述べさせていただきましょう。


 魚は喋らないから、単純な生物の行動原理に従った行動を僕がすれば、彼らは本能に従って、僕を好いてくれる訳ですよ。


 でも、人は喋る。


 言語は単純だった生物の本能に、理性を与えた。その行動原理は複雑化して、それを解析することは困難を極めます。だから、それを読み取るのは厳しいものがある。


 よって、魚と人を同一視できない。なので、人との関わりの上手さと魚との関わりの上手さに関係はないんですよ。」

「随分人として朗々と語ってくれたわね。


 そこまで流暢りゅうちょうに言葉を紡ぐことができれば、人の行動原理も悠々と操ることが出来そうだけどね。」

「違いますね。この言葉の流暢さは、人にとってマイナスですよ。


 初対面で話しかけた相手がここまで理屈っぽく、原稿を読むようにすらすらと機械的に発言すると、一般的な人間は気持ち悪さを覚えるんですよ。」

「そうかなぁ? 私は好きだよ。」

「……ようやくあなたの行動原理が掴めてきた。


 あなたは逆ユニコーンですね。」

「逆ユニコーン?」

「ユニコーンは穢れ無き処女しか背中に乗せないんですよ。あなたの発言、行動はいかにも童貞が好きそうなことばかりしている。その行動はあまりに軽薄で、分かりやすい。でも、純真無垢な童貞を騙すには十分な魅惑です。


 あなたの行動は生物の本能的な行動と言うよりもただ心をもてあそぶことだけを目的にしている理性の暴走のような行動ですよ。」

「とりあえず、君が人に好かれない理由は分かったわ。」

「それは良かったです。」

「じゃあ、そろそろ魚と人を同一視してはならないという君の意見への反論をしていいかしら。」

「どうぞ。」

「正しく言えば、あなたが今言った主張の矛盾からあなたの信頼性を揺らがせるだけなんだけれどもね。」

「僕の行動、発言に矛盾なんてしていましたか?」

「そもそもこの議論になる発端になったものは、私が君の腕が当たるような位置に座ったことよね。」

「ええ、そうでしたね。」

「そして、そのチャンスを無駄にするから、魚に逃げられるって話の流れから、魚と人を同一視してはならないと君は主張した。


 ここまではまだ論理的な破綻はないわね。


 でも、魚と人を同一視してはいけない理由に言語の有無を持ってきてはいけないわよ。」

「なぜですか?」

「だって、私が君にした行動は言葉を介さないコミュニケーションだったからよ。


 私と君の腕が当たるという言葉の無い物理的接触は、言葉を介したものじゃないから、単純な生物の行動原理になるんじゃないかしら。


 君の言う所の魚の行動原理ね。


 なら、この魚の行動原理にうまく対処できていない君は、魚にも好かれないという論理関係を私は提示したことになるわね。


 でも、君がした反論は、人と魚の言語の有無よね。それは、私のした主張とは全くかすらない形へと議論を飛ばしている詭弁であるということよ。」


 僕は反論できなかった。


「中学生にしては歯ごたえのある主張だったけど、まだ主観性が抜けきっていないね。


 私の予想通りうぶな少年だったみたいだね。」


 彼女は勝ち誇ったような笑顔をこちらに向けた。悔しいという気持ちの裏で、自分の中の本能的な何かが心臓の鼓動を速めた。


「……竿、動いてない?」


 僕は竿に目を向けると、確かに釣り竿は動いていた。僕は急いてリールを巻く。かなり強い引きだ。大物の予感がする。


 しかし、急にその大物の手応えはまさにプツリと消えてしまう。


 僕は急に無くなった手応えに尻もちをついた。コンクリートの硬い感触が尻の骨を打つ。振動が脊髄にビリビリと衝撃を伝えて、痛みを感知させる。


 僕はすぐに立ち上がって、尻をさすり、痛みを和らげた。その後、僕は釣り竿をみると、案の定、釣り糸が切れていた。


「逃げられちゃったね。


 ……大丈夫?」

「大丈夫ですよ。このくらい。」

「ちゃんと男の子だね。次も遊び甲斐がありそう。」


 彼女はにこりと嫌な笑顔を浮かべた。


「君、明日も来るの?」

「まあ、多分。」

「そう。じゃあ、次は大物を釣り上げている所を楽しみにしているわ。」


 彼女はそう言って、立ち上がると、堤防から離れていこうとする。


「もう帰るんですか?」

「もっといて欲しかった?」

「……あなたは何をしに来たんですか?」

「海のベットを見に来ただけよ。」


 僕が「海のベット?」と聞き返す前に、彼女は去ってしまった。


 僕は彼女の名前も聞けずじまいだった。



 魚も人も難しいな。

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