リスのしっぽをつかんではいけない

しえる

逃げる女

1

第1話

「——また逃げたのか?」



ボウモアのロックグラスをこくりとあおり、ハルは静かに言った。


彼の口調には呆れも失望もない。淡々としている。


それだけ、もはや珍しいことでも何でもなかった。



カラン。



琥珀色の薫り高きシングルモルトに溶け込む氷山のようなロックアイスが、薄いグラスに当たって涼やかな音を立てる。



飴色のライトのもとスツールに浅く座ってカウンターに肘をついたハルは、物憂げな表情でグラスをコースターの上に置いた。



彼の上半身は左側を向いている。


その視線の先には、ひとりの女が首を左に傾けながら、左手の指先でグラスの縁をなぞっている。彼女はかなり酔っているようで、頬はほんのりと薔薇色に染まり焦点の合っていない目は潤んでいる。


長いまつ毛は天然で、ロングラッシュのマスカラをひと撫でつけただけ。青みがかった淡いシアーのローズピンクの唇は、ブルーベースの彼女にはよく似合っている。ちょっと気の強そうな、それでいてどこか抜けているようなかわいい感じの美女。



バーのカウンターの隅に並んで座る二人は、一見するととてもお似合いの完璧なカップルに見える。


へたするとぼんやりとしたイメージに見えがちなライトグレーのカジュアルスーツをモデルのように着こなしているハルと、黒いシフォンのブラックミニドレスの女。


平日の夜の10時をまわったところ、バーはそれほど込み合っていないが、薄暗い片隅にいるこの二人は明らかに人目を引くオーラを放っていた。




「リョウ」


ハルは傍らの女の名前を呼んだ。


「おい、リョウ、聞いてる?」


ハルは長い指でぺしっとリョウの額をはじいた。



「うん、聞いてるってば。痛いよ、先輩」


リョウは小さくちっ、と舌打ちをした。


彼女の薄く開いた唇の間からすこし白い歯がのぞく。心持ち上唇よりもふっくらとした下唇を軽く噛んで、彼女は呟くように答えた。


「——しかたないよ。足が勝手に……動いちゃうんだもの」


しゅん、とリョウがうなだれた隙に、ハルは背後の通路を猫のようにすり抜けて行ったタイトなミニドレスの女に視線を向ける。


二人の背後のテーブル席からも、右、左、奥、あちこちからちらちらと彼に秋波が送られてくる。



リョウはハルのスーツの腕をぺしっと叩いた。


「ちょっとっ、今すべきことはあの中の誰かをお持ち帰りしよう、どれにしようかなって考えることじゃないよね? かわいい後輩のグチを聞いて、慰めることが最重要事項だよね?」



ふ、を笑みを漏らしてハルは奥の席からの秋波を受けて目を細めた。

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