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第17話

「さっき、私の愚痴を聞いていて、ところどころ鼻で笑ったよね? 私のこと、気が小さくてまじめすぎるつまらない奴って、ディスったよね?」


エレベーターが到着する。


ほら、と促されるのを首を横に振って拒否する。


エレベーターが締まり、下に行ってしまう。


「いや、べつにばかにしたわけじゃない。俺とは真逆だと思っただけ!」


「私、今の自分が嫌になってきた。もしもこのまま年を取って死んだら悲しすぎる」


「それが俺を責めるのとどんな関係があるんだよ?」


私は背伸びをして、彼の顔を両手でとらえた。その時、初めてまともに……数時間一緒に飲んで愚痴を聞いてくれた相手の顔を見た。


いや、本当は、今までは意図的に見ないようにしていた。一瞬、動揺する。


はじめから、声は低くて素敵だと思った。指も長くてきれいだと思った。やはり……造作も超絶整っていた。


おかげで11万円のワインの余韻がすべて吹っ飛んで一瞬で素に戻ったけれど、そこで怯んだら負ける・・・気がした。


何に? 


勝ち負けなんて、まったく気にしない人生なのに?



それが俗にいう、「魔が差す」ということに当たるのかもしれない。




「——明日、日本を発つんでしょう?」


「そうだけど」


「それでもう、帰ってこないんでしょう?」


「いや、一時的に出てるだけ。この国の人間だからそのうち戻ってくるけど」


「いい加減なのは気楽だから、決まった相手はいらない、あんたもやってみればいいって、言ったよね?」


「い、いや、それは」


「おしえて。真逆の側・・・・を」


「……」


彼は不思議なものを見るように私を見下ろして、やがてふと困ったような笑みを浮かべた。


私の両手をすり抜けて、私の目線の高さにまでぐぐっとかがんできた。


「なかなか衝撃的な誘い方だな。俺を利用する気か」


距離がせばまる。


「人聞きが悪……い」


後ろは壁。逃げ場はない。鼻先がかすれ合う。


私は目を伏せる。じっと見つめられて、見つめ返せなくなる。アルコールの力を借りても、強がっても、しょせんはミジンコ、究極のビビりだ。


彼は私のウエストを自分のほうへ引き寄せながら、エレベーターのパネル”⇧”に触れて鼻で笑う。私がパネルの前で邪魔だったらしい。


「まぁ、いいか。後悔して泣いても、知らないからな」


脚が震える。ウエストを支えてもらっていなかったら、多分その場にへなへなと崩れ落ちてそう。それでも再び視線を上げて、彼の目をまっすぐに見すえた。


「また、ばかにしてるの?」


唇が、話すたびにかすかに触れ合う。


「ちがう。俺のことが忘れられなくなるっていう、そういう意味で」


エレベーターの扉が開く。無人。


言い返そうとしたときに下唇を甘噛みされる。


そしてそのまま手首をつかんでガラスの空間に引き込まれる。ガラスの扉からは夜景が見下ろせるけど、もうそれどころじゃなかった。


エレベーターは振動も音もなく静かに上昇していく。


息をするのもままならなくて、頭の中は真っ白になった。





な、なんと……私が、誘ったんだ……‼






「おはようございます」


淹れたてのコーヒーを差し出して昨夜のお礼を述べる。


「昨日は夕飯をごちそうさまでした。早速ですが、あれからワインをいただきまして……その、夢のように、おいしかったです」


――今では、すべて夢だったということにしてしまいたい。


「おはようございます。喜んでいただけたようで、何よりでした」


専務の笑顔には、少し同情が混じっている。「結婚はナシになりました」と言ったから、私が傷心していると思っているのかもしれない。


それよりも私は昨夜、自分の認識限界値をはるかに超えてしまったのです、とはお伝え出来ませんが。


「あのあと、無事に帰宅されましたか? 私は副社長に朝方まで付き合わされて散々でした」


はは、と専務は苦笑する。私も、はい、とだけ答えてにっこりと笑み返す。


――言えるわけがない。





本日の午前中、専務は営業部の部長と全課課長との会議に出席する。その間、私はニコイチ片割れの翔ちゃんとふたりで、途中休憩のお茶の準備をする。


「いいなぁ、朔。昨夜は専務にA5ランク連れて行ってもらったんだよね。あそこのシャトーブリアン、口の中でとろけるんだよね。僕も食べたかったー」


のんびりと話してはいるが、翔ちゃんの手元は高速でお茶菓子を一人分ずつに仕分けている。


「ついに伝えたんだよ。結婚は、ナシになりましたって。こっちが申し訳なくなるくらいに、さりげなく励まされたわ……」


「そっか。結婚するって報告して数日でやっぱりしなくなったって、ちょっと言いづらかったよね、朔。それで、あの人どうすることにしたって?」


駿也が私の恋人ではなくなったので、翔ちゃんは「奴」とか「あいつ」と呼ぶのをやめたらしい。


「まだはっきりとは決めてないけど、ミラノで就職する予定みたい。彼女はもう帰国したらしいけど、お正月休みには向こうに行ってくるって」


「そうか。元カノと浮気だと思ったら、意外な結末だったよね。朔が思ったよりダメージ激しくなくてよかったけど……なんか、今日きみ、めっちゃ疲れてない? ん? あれ? ちょっと、んん⁈」


お茶菓子を袋から開けて差し出した時、翔ちゃんは目ざとく私の手首の小さなあざを見つけ、両手ではっしと捕まえて私のスーツの袖をめくった。


「いやちょっと、朔、なにこれ? 指のあとじゃん! あっ、こっちはもしや! えっ? ちょっと、きみまさか専務と……?」


「かっ、翔ちゃん! 違うから‼ し――っ!」


私は掴まれていないほうの手で翔ちゃんの口をふさいだ。彼は大きな目で探るように、好奇の色を浮かべながら私をじっと見つめた。こくりと頷くと翔ちゃんも同様にうなずいた。私が口元から手を外すと、翔ちゃんは私の手首をつかんだまま口元を吊り上げた。


「朔、話して。誰が付けたの、これ?」

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