第4話 欲望と情熱…私が誘ったんだった!

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第16話

そうそう。




なんで、こうなった⁈




だいぶ夜が長くなってきて夜明けも遅くなり、午前5時はまだ薄暗い。


もたつきながら急いで服を着て、転がり込むようにタクシーに乗車して、逃げるように帰宅した。



そう、逃げるように、いや、実際、逃げてきた。




何からって?


それは……


やらかしてしまった事実から‼




頭が、重い。人間の頭はボーリングボール1個分4.5キロくらいの重さというけれど、今朝は6キロくらいに感じる。


あまりの重さに、お昼までに首が折れるかもしれない。



金曜日だ。早く準備をして出勤しなきゃ。


もつれる脚でお風呂場へ。スーツを脱ぎ捨てて鏡を見て叫びそうになる。


ここ数日消えなかった薄グマが、まるでゴスメイクのようにくっきりと真っ黒に浮かび上がっている。


マスカラとアイラインが流れてドロドロだし、リップなんてもちろん、とっくにはげあがっている。


どうしてタクシーの運転手さん、超自然な態度だったの⁈


ひどい。


あまりにもひどすぎる。


私がこんな妖怪みたいな顔をさらしていたというのに、全くすっきりしない浅い眠りから目覚めたその傍らには、枕に半分埋もれた作り物のように完璧に麗しい、見慣れない顔が安らかな寝息を立てていた。私はとっさに口元を押さえて悲鳴を飲み込んだ。


なになに?


なにこれ?


一体、なにがどうなった⁈




勢いよくひねったシャワーに頭のてっぺんから、滝行のように打たれる。


よく、よぉーく思い出してみようか。




えぇと、まずは、ワインをお裾分けした。どうぞお構いなく、ただのお裾分けなのでご自分のお席でご堪能ください、とお伝えしたよね。


それを聞き流して、その人はボトルにかけられた「おめでとう」のタグを指でいじりながら、どうでもよさそうに訊いてきた。


「あの。これ、何のお祝い?」


「それは……ちょっと、言いたくないな……」


「ふーん。ならいいけど、こんなバカ高い酒を一人で手酌って」


「あ、やっぱりバカ高いのか。そうだとは思ったけど」


彼は呆れたようにため息をつき、両手の長い人差し指を一本ずつ立てた。


「どこのどいつがこの猫に小判を……プルミエ・グランクリュ・クラッセ……あー、まぁ、言っても無駄か。とりあえず普通にこれくらいはするといえばわかりやすいか」


「1万1000円? うわー、すごい」


目を丸くする私に男性はへっと皮肉な笑みをもらす。


「一桁間違ってる。ゼロをもうひとつ増やすんだ」


「えっ? じ、じゅう、いち、まん⁈」


「そう。これで2万円ちょっと」


男性は自分のグラスを指し示す。


私は驚愕の叫びが飛び出ないように、両手でがっちりと口元を覆う。専務、本当にこれは猫に小判、いえ、豚に真珠かと……


「誰がくれたのか知らないけど、もしも男がくれたんだったら、そいつは確実にあんたに気がある」


「いやいやいや、そんなことは絶対にありえないし!」


男性は小さく舌打ちする。


「わかってないな。まぁ、俺には関係ないか」


――といいつつ。


その人はまったく無理矢理ではなく、煩わしくなく、いくつかの質問を何気にしてきて、結局は私は……言いたくないと言っておきながら、いろいろなことを話していた。そのワインが上司からの結婚祝いだったこと、結婚は白紙になったこと、失恋したことなど。


もう二度と会わないだろうし、名前も職業も話していないし、ま、いいかなと思ったから。


その人の顔もろくに見ていないのに、親友に冷めてると言われたことまで話していた。例の、情熱とか、欲望とか。


(今思うと、恥ずかしくて死にそう。お酒って本当に怖い)



結局、愚痴になった……んだと思う。話しているうちにボトルは空になった。


別にいいのに、彼は5万円分くらいは私のくだらない愚痴に付き合ってくれた。




そして。




「ごちそうさま。おい、寝るなよ。ここに泊まるのか? それとも家に帰るのか?」


ワインの持ち込み代は、その人が払ってくれた(ということを、ずっと後になって思い出した)。


「んー。泊まろうと思ってる……」


「ならレセプションまで連れってってやる。俺はこんな酔っぱらいを放置していくほど冷たい奴じゃない」




うーん……


そこまでは覚えてる。


それがどうして、ああなった?




シャワーから出て、バスローブを羽織り髪を乾かす。タオルドライのあとにドライヤーをかけようと鏡を見て、ひっと悲鳴を飲み込む。


ななな、な、なに、これ?



バスローブをはだけて鏡の中の自分を凝視する。



首筋、鎖骨の周り、胸のあたり……腕の付け根、ちょっと待て、と紐を解く。


踏みつけられた猫のような悲鳴を上げる。へそ回り、モモの内側、体のありとあらゆる柔らかなところが、うっ血痕だらけ……



「な、な……」



あ。


思い出し、ちゃった……




「おいちょっと! ちゃんと歩けよ」


エレベーターホールまでの通路をふらふらと歩く私を、ぞんざいな口調ながら後ろから支えてくれた。冷たいのか義理堅いのか、よくわからない人だ。


エレベーター前のラウンジバーの名前の金文字プレート”Cloud 9”をさして、私はへへへと笑って言った。


”Im on cloud nine!” (→「超サイコー!」という意味)


「何言ってるんだ。あんたある意味、酒癖悪いな。まぁ、おごってもらったし、しかたない、チェックインするまではちゃんと見届けてやるし」


「あなたはどこまで帰るの?」


「俺は一昨日おとといからここに泊まってる。ここには知り合いの結婚式に来ただけで、明日、海外に戻るんだ」


私は彼のジャケットをがっしりとつかんだ。


「じゃあわざわざ下まで行かなくていいし、そこに泊めて」


「あんた……ばかなのか? ばかなんだろう? どういう意味? 酔っぱらい過ぎて、自分がいま何言ってるのかわかってないんだろう?」


私は両頬をぐいーと左右に引っ張られて悲鳴を上げた。あまりの痛さに涙がちょちょぎれる。

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