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第10話

その日は午後じゅう、翔ちゃんの言っていたことが頭の中で延々とリピートしていた。




『きみ以外の女と寝ても平気なのかってこと。平気なのかな。きみからあいつへの欲望が、なんかどこにも感じられないから』


『朔は感情的なほうじゃないけどさ。なんか冷めてるよね。情熱とか欲望は、薄い感じ』


『そういえば、けんかもしないよね、今まで一度も』




……言われてみれば、いろいろと当たってるかも。


でも、今までの乏しい恋愛経験においても、おおむねそんな感じだったように思う。


好きになるのは、穏やかな感じの同級生や、優しい先輩。リーダータイプの子……じゃなかった。「私、あの子が好き」と友達に先に言われれば、自分のことはさておき、応援してあげた。


自分から告白したことなどなくて、好きだと言われると私もいつの間にか好きになる。終わりはたいていが自然消滅か、相手に別に好きな子ができる感じ。そうなるといつも、「やっぱりね」と思っていた。


ということは。


27年も生きてきて、ただの一度も、激しく心揺さぶられたり情熱や恋情のままにのめりこんだり誰かを死ぬほど愛したりしたことが……な、い、ということ。


正直、われを忘れるようなことなんて、何に関しても一度もない。貧血で倒れたことも気絶したこともないし、お酒を飲んで前後不覚になったこともない。


けんかも……したことは、ない。無理したことあるのは、仕事くらいだ。


駿也はいつも優しいし、いつも私の意見を聞いてくれる。それでどうやってけんかするの?




「……あの」


ぼんやりと視線を漂わせていたデスクの上の書類の上を、とんとん、と長い人差し指がタップする。


はっ、と我に返り、慌てて目の前を仰ぎ見る。


「す、すみませんっ! ちょっと考え事を……」


執務室の私のデスクの前に立った専務は、ちょっと驚いてからふと苦笑した。


「珍しいですね、考え事なんて」


怒っている様子ではない。いや、専務はこんな些末なことでは腹を立てたりしない。尊い。


「今日はもう、上がっていただいて結構ですよ。そうお伝えしていたのですが」


「あ、もう、本当に。申し訳ございません! ありがとうございます」


「山野井さん」


「はい」


「何かお悩みですか? 今日はちょっと、様子が変ですね」


私はふう、と小さく息を吐いて立ち上がる。デスクをはさんで専務と向かい合う……とはいっても、ずいぶん上を見上げないといけないけど。


「専務」


「はい」


専務は平静を装いつつも、何かただならぬ雰囲気を感じ取って緊張している様子。


私は、覚悟を決めて切り出した。


「渉外部の圷さんと、結婚することになりました」


専務は普通にちょっとした驚きを見せて、すぐに笑顔を見せた。


「それは、おめでとうございます」


「本日お互いの上司に報告ということにしていたのですが……退勤前ならばご迷惑にはならないかと」


「そんな、迷惑だなんて。あ、では今度、お祝いさせてください」


「ありがとうございます」




……土曜日の昼寝から目覚めた後。


一緒にスーパーに買い出しに行って、夕飯をふたりで作った。


食べながらいろいろとこれからのことを話し合った。


とりあえず結婚式はいくつか式場を回ってみて、空きを調べて候補日を絞ってみる。お互いの家に挨拶に行く。直属の上司へ報告をして、そのあと一緒に人事部へも報告に行く。


その他もろもろは、そのうちに……


私の業務上婚約指輪は目立つので、会社ではつけないことに。




そういうことで、たぶん駿也も上司に報告しているはずだ。専務への報告後、室長にも報告する予定なのだ。


「それで、いつ頃、ご結婚されるんですか? ああ、そうなると……退職されることに?」


「えっ? あ、いえ、あの……結婚後も、しばらくは続けたいと思っています」


「そうですか。それはよかった」


専務は安堵の笑顔を見せた。なんか……とっさに言ってしまった。「もうあともどりはできない」という正体の知れない強迫観念と未来への漠然とした不安が、「仕事を辞めたら終わりだ」と私に警告する。「何」が「終わり」なの? 


私が結婚してもしばらくはそのまま働きたいって言ったら、きっと駿也はいいよと言うと思う。これは今度、話しておかないと。



「朔、朔、朔! 待って待って!」


エントランスに向かって歩いていると、後ろから翔ちゃんが追いかけてくる。


「どうしたの? 翔ちゃん」


「ねねね、今日はこの後何か予定ある?」


「別に、何もないけど」


「あいつは?」


「週前半は残業かなって言ってた。長期出張のあとだし。私は、週末まではこれといって」


「そっか。じゃ、これ行かない?」


翔ちゃんはスマホをひらひらさせる。


「何?」


「ホテルのスパ付き宿泊コード! ミチカ先輩がただでくれたんだ! ずいぶん前から彼氏と行こうと予約してあったんだけど、急な海外出張で今は太平洋上空。今日の6時チェックイン」


ミチカ先輩は社長の第1秘書で、かなり優秀な人だ。私も彼女の下で第3秘書としてしごかれた。今朝急遽、タイに行くためのチケットの手配に忙しそうだった。


「ああ、社長はプーケット行かれたのね。スパ……いいね」


「行こ行こ! どうせ僕はうちのとはそういうところ一緒に行けないし、今はスペインに仕事で行っていないし。朔と行ってもいいかさっき訊いたら、いいよって言ってたし! アロマテラピーにフラワーバス、ヘッドスパに薬膳ディナー、スイート宿泊!」


「うわぁ。ミチカ先輩、さぞかし残念だったろうね。行く行く!」


私たちは浮足立って会社を出た。

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