悪魔令嬢とモブ令嬢

しえる

崖っぷちの悪魔令嬢

第1話

魔界。




 あらゆる罪人たちが業火で焼かれ、残忍な拷問を永劫に受け続ける下層……とは離れた別の層。



 そこは地獄の大公爵アスタロトの豪奢な城。



 黒を基調とした石造りの外観、内部もしかり。


 ほんとうにここは地獄なのかと、疑いたくなるような俗っぽい絢爛豪華ぶりだ。


 

 その一角、三階分が吹き抜けの壁じゅうに、ぎっしりと本が並べられた古めかしい図書室。


 閲覧用の大きな机に積み上げられた本の山。


 コの字を形成するように積み上げられたその山の前には、椅子に座りうなだれる少女がひとり。



 青みがかったダークシルバーの長い髪をハーフアップにして、シンプルな黒いドレスを着ている。髪には黒いバラの花の髪留め。


 抜けるように白い肌、小さな輪郭、細く長い首に細い鎖骨。つんと突き出た小さな鼻、血のように赤い小さな唇、意志の強そうな細い眉。



 そして何よりも特筆すべきは、びっしりと長い銀のまつ毛に縁どられた、彼女の愁いを帯びた大きなふたつの瞳。


 紫がかった濃いブルーの上に薄いブルーグリーンが浮かび上がっている。瞳孔に近い中心部分には琥珀色の光が散っている。


 一見すると天使のような美しさ。


 十六歳になって成人を迎えたばかりの、大公爵アスタロトの娘。



「レディ・カミーユ……」


 深いため息とともに、低い声が彼女の名を呼ぶ。


 少女の背後、大きな窓辺に向かって立つ細身の男。ストレートの黒髪を、後ろでひとつに束ねている。


 彼の細い銀縁の眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、ちらりと彼女に向けられる。


「はい、先生」


 カミーユはうなだれたまま何の感情も込めずに返答する。


 先生と呼ばれた男は振り返り、彼女のほうに向きなおる。


 成人男性にしては華奢すぎるほどに細身ではあるが、彼もとても美しい。


「また、不合格でしたね」


「――はい、メフィストフェレス先生」


「成人してから特に、魔力の伸びが見られないようです」


「はい」


「お父上のアスタロト様が、もうこの際すっぱりと諦めて、どこかの家門へ嫁いではとおっしゃっておられました。腹違いのお兄様がた何人かからも、婚姻の申し出があります」


「それは……どちらも嫌です」


「ですが兄上がたも姉上がたも、下級レベルは十歳前後で終えられました。レディはすでに十六歳にもおなりです」


 カミーユは顔を上げて師をすがるような目で見つめる。


「先生。私には半魔というハンディがあります……」



 そして再び彼女は下唇をきつく噛みしめてうなだれる。そんな言い訳には何の意味もないことは、彼女自身がよくわかっている。


 メフィストフェレスは残念そうに首を横に振った。


「確かに、人間としてならばあなたの魔力は十分と言えるかもしれません。おそらくは魔塔の魔術師の中でもクラスがつけられない最強の部類でしょう」


 そして彼はコツコツと靴音を静かに響かせて、窓辺から机のわきを通り越してソファまで歩いて行った。


「しかしここは魔界です。そしてあなたは大公爵アスタロトの末娘でいらっしゃいます。あなたの魔力は……」


 ソファに身を沈め、ふう、とメフィストフェレスは肩で息をついた。


「いえ、それは口にすべきではありませんね。今までのやり方がだめならばこの際、別のやり方を試してみようと思います」


 カミーユははっと顔を上げて師を見る。


「それは……?」




 メフィストフェレスは浅く首肯する。



「あなたにふたつ、課題を出したいと思います」


「課題、ですか?」


「ええ。これから三年間、人間界へ行ってください。そこで人間について学ぶのです」


 カミーユは驚きと戸惑いを浮かべる。


「先生、なぜ人間界で人間について学ばないといけないのですか? 地獄ここでも学ぶことは可能なはずです」


「じかに人間を知り、彼らが何を善として悪とするかを知れば、彼らを破滅させることも惑わすこともたやすくなるでしょう。まずは人間の中で暮らし、彼らをよく観察してみてください」


 意味が分からないというような不可思議な表情でカミーユは少し身を乗り出す。



「それで……どうするのですか?」


「ひとつ、誰か一人の人間に善行を行ってください。そしてその人物から心からの感謝の言葉と歓喜の涙を引き出すのです。ふたつ、誰か一人の人間を絶望させてください。そしてその人物に銷魂しょうこんの涙を流させるのです。ただし、それらの課題をこなすために、彼らの感情を操るような魔力を用いてはなりません。それらの過程において、あなたの適性・・がわかるでしょう」




 カミーユは息をのむ。




「適性、というのは何のことでしょうか?」


 メフィストフェレスは教え子を見つめて慎重にうなずいた。


「悪魔なのか、人間なのか、それとも天使なのかの適性です」


 カミーユが大きなアースアイズを驚愕で見開く。めずらしく、感情の乱れで瞳孔が揺らぐ。


「なぜ、人間や天使などと……!」


「物事の善悪も存在の善悪もすべては表裏一体です。お父上のアスタロト様もあなたの憧れのベリアル様も、もともとは天使であられました。アスタロト様のお子様であるあなたに天使の素質がないとは断言できません。ましてやあなたはお母上が人間であられます。とりあえず悪魔としての可能性の限界を決めつける前に、他の資質がどれくらいなのかも試してみる価値はあるでしょう。場合によっては、人間界の次に天界へも数年赴いていただくことになるかもしれません」


「そんな」


 カミーユは困惑の視線を師に向けた。


「もう、後がないのです。異界での経験によって、混血であるあなたの魔力が上がるかもしれません。試してみる価値はあるでしょう」


「……」 


 カミーユはしばし逡巡する。


 メフィストフェレスのような優れた悪魔に師事して八年。いまだに下級レベルの魔力しか持ち合わせていないのが申し訳なくて仕方がない。


 このままでは中級に上がれるかどうかも怪しいのだ。

 

 それに魔力が低いままでは、ベリアルほどの大悪魔の目に伴侶として留まるのも難しい。

 



 ベリアル。




 彼女の物心ついたころからの憧れの存在。


 銀の長髪に金色がかったブルーグリーンの瞳。悪魔や人間はもちろんのこと、天使さえも惑わすその圧倒的な美貌。


 数千年を生きている彼から見れば、カミーユなどまだほんの赤子にしか見えないだろう。


 早く上級の魔力を身に着けて、一人前の悪魔となって彼の目に留まりたい。


 でも……


 このままでは知性の低い醜い獣形の下級悪魔か、残虐な異母兄のうちの誰かに嫁いで玩具かペットとして虐待を受け、壊されるしか道はない。


 それならばこの天才の言うように、別のやり方を試してみるのもいいのかもしれない。いや、試してみるしか道はないのだ。

 


 彼女は華奢な両手を胸の前でぐっと握りしめ、まっすぐに師を見つめた。


「――わかりました、先生。人間界へ行ってまいります」


 メフィストフェレスはカミーユを見つめ返した。宝石のように美しい瞳の中に、彼女の固い意志を見た。彼はほっと小さく吐息した。


「初めての人間界、不慣れなこともありましょう。供のものをお付けします」


 メフィストフェレスは細く長い指をぱちりと鳴らした。すると、目の前に二匹の悪魔が現れた。


「リリア、ウァラク。お前たちにレディー・カミーユの人間界への随伴を命ずる。よくお守りするように」


 豊満で魅惑的な体にぴたりと張り付く黒革のドレスを着た艶やかな黒髪の女はひざまずいたまま顔を上げて、赤い瞳を細め赤い唇の端を引き上げた。その隣で同じようにひざまずく、暗い青緑色のドラゴンのうろこで作られたブレストブレードを身に着けた黒髪に青い瞳の少年も、にやりと笑みを浮かべた。


 そして二匹の悪魔は同時に恭しく応えた。


「御意」


 カミーユは彼らを見る。


 生まれたときから一緒にいる、夢魔サキュバスのリリアと侍従のウァラク。一緒に来るのがこの二匹であることですこし安堵する。


「ではお前たちもすぐにでも発てる準備をするように」


 メフィストフェレスがそう言うと、二匹はまた姿を消した。

 


「レディ・カミーユ。では私は閣下に報告後、直ちにあなたの人間界行きの準備に取り掛かります」

 

 メフィストフェレスはソファから立ち上がると、カミーユに丁寧なお辞儀をして図書室を出て行った。


 立ち上がり礼に応え師の背中を見送ると、カミーユは再びすとんと椅子の上に腰を落として呆然とした。



「人間界……この私が」


 お母様の、生まれ故郷。


 やるしかない。


 自分のために。




 カミーユは胸の前でか細い手を合わせてぎゅっと握りしめた。

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