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第16話

彼はヴァラが魔術を使っても彼女を恐れたり、奇異な目で見たり、態度を変えたりすることはない。


ふわふわ雪がペットではなくいろいろなものに変化できる使い魔だと知っても、いっこうに怖がらない。


新しいことを目の当たりにするたびに驚きはするものの、それらをあるがままに受け止めて素直に認識してしまう。



きっと、とても疲れているのだろう。


ヴァラはそっとヒューの頬に触れる。魔女の直感で、彼が自分に気がないわけではないことには気づいている。出会ったあの日、北の塔までを話しながら歩いた時からかれ合っていると感じる。



昨夜は熱に浮かされてぼうっとしながらも頑張って誘惑していたのに、ついに彼は誘いに乗らなかった。ヴァラとしては、誘惑に負けてくれることをちょっとは期待していたのだけれど。


そっとヴァラは屈みこんで、ヒューの額に唇を落とす。左の瞼に、左の頬に。


ヒューは目覚めない。目覚めてくれてもいいのに。


一度だけ、木漏れ日がさえぎられてまた戻るまぶしさから、少しだけこそばゆそうに口角を上げて笑んだ。それに微笑んだヴァラは、ヒューの唇に自分の唇をやさしく落とす。




『誰かを自分の意志で誘惑して惚れさせて情を交わす』




一人前の魔女になり、王家にかけられた呪いを解くための必須条件。


バルが連れてきた彼の幼馴染のヒューは、ヴァラにとってはその条件を満たすためにちょうど良い人物だった。


婚約者がいたとしても、魔女としてはその後のことなどどうでもよくて、ただ目的を成し遂げるために一度だけ協力してもらえればいいと思っていた。




 それなのに。




ふわふわ雪は初対面からなついてしまうし、泰然と何にも動じずに偏見を持たず、安心感を与えてくれる。王太子命令だから一緒にいてくれるのではなく、お互いに好意を持っていることは感じる。



 残念ね。



こんなにもどんどん惹かれるのに、彼には家同士の決めた婚約者がいるだなんて。


頑張って落としたとしても、その先は確実に何もないわ……




それから半刻ほど経って、ヒューは目を覚ました。


半身を起こしてあたりを見渡すと、湖のほとりでヴァラが二頭の馬たちを佇んでいるのが見えた。二頭はヴァラの両側から首を低く垂れて彼女の話を一生懸命に聞いているように見える。


遠すぎて内容はわからないが、ヴァラは優しい口調で馬たちに歌うように語りかけている。


動物と話す姫君だなんて。ヒューはくすりと笑う。


世間がうわさする「呪いの姫君」がこんなに魅力的な姫君だなんて、この先も誰にも知られなくて、自分だけが知っていればいいと思う。



ヒューは浅いため息をついた。そして自分の下唇にそっと指先で触れる。


さっき眠っているとき、ヴァラに口づけられた。気のせいでも、夢でもない。


彼の寝たふりはばれなかったようだけれど、優しく髪を撫でられて、目を開けてしまおうかと何度も考えて結局はそのままにした。


どうせならば、起きているときにしてほしい。


いや、やはり……気づかないふりを通したほうがいい。


いくらどんなに惹かれても、惹かれ合っても、ヒューには家同士が決めた婚約者がいる。個人の感情は、家のためには何の役にも立たない。



ヴァラが戻ってくる。


ヒューが起きたことに気づき、右手をちょっと上げた。


ヒューも手を振り返す。馬たちは当然のように彼女の後に付き従ってくる。


野原一面の紅い芥子の花たちが、風も強くないのにゆらゆらと揺らめいていた。





「どうして? どうしてなんだ、ヒュー!」


ヴァラを北の塔に送り届けた後に向かった王太子の執務室で、バルは机にばんばんと拳をたたきつけながら身もだえた。


イギーやフランツさえも人払いして、そこにいるのはバルとヒューの二人きりだ。昨日からのいきさつを大まかに報告し終えると、バルの非難が始まった。


「何が、どうしてだって?」


ヒューが眉根を寄せるとバルはハ—―ッっと深く長いため息をついた。


「そんな状況に陥れば、普通はもっといい感じの展開にならないかな? 空気を読んで? 流されるとかして? 年頃の男女として?」


「な、なにを! 薬が入った状況で、流されて乙女をどうこうしていいわけないだろう?」


「何きれいごとを。キミにとってヴァラは女としての魅力を感じない相手なのかな?」


「そんなわけないだろう? いや、だから、そういう問題じゃないよね? 彼女は妹だろう? バルは妹の貞操は大事じゃないわけ?」



バルは再び深いため息をついた。


両側のこめかみを両手の人差し指でぐりぐりと抑え机に両肘をつく。


「まぁ、私は長年キミのことをよく知るから、気持ちはわからなくもないけれどね。昨日イェルから聞いて、キミたちが嵐で帰ってこれなくなったと知って、ちょっと期待したんだ。私は正直に言うとね、キミたちがなるようになればいいなと思っているから」


「婚約者がいる男に妹を勧めるなんて、バルらしくないよ」


「うん? キミの今の婚約者なんて、実際に会ったこともないのだろう? ええと……五番目? 六番目だったかな? そんなもの、あとからどうにでもなるからね。放っておいてももうそろそろ呪いで……おっと、失礼。これは不謹慎な失言だ、口にしてはいけないよね」



バルは口元を手で塞いで大げさにおどけて、グリーンがかったヘイゼルの目をくるりと回す。


「私に近づけたら得体の知れない呪いのせいで、過去の婚約者たちのように自分の妹も危ないって、そうは思わない?」


ヒューの質問を、バルは椅子の背もたれにのけぞって一笑に付す。


「ヒュー、彼女は魔女の娘だよ。キミに惚れれば呪いくらい自力でどうにかするさ。キミはさぁ、私に命じられたから嫌々彼女と一緒にいるわけではないだろう? たぶん初めて会った時からあの子に惹かれているんだろう?」


「そ、それは……否定しない」


「あのね、彼女が呪いを解くためにはね……うん、まあ、いいか。私は魔術師エドセリクを信じることにするよ」


「はい?」


ヒューは首を傾げたが、それ以上バルは言うことはないとばかりに手をひらひらと振った。




バルのもとを下がり、久々に帰路に就く。


馬を走らせているとき、ヒューは森からの帰り道のヴァラとの会話を思い出す。




芥子けしの野原を発ち、森の小道を進んでいるときにヴァラはため息をついた。


どうかしたのかとヒューが尋ねると、彼女は寂しそうに苦笑して少しずつ話し始めた。


「私は呪いを解くために予言を受けて生まれたの。七番目の息子の七番目の娘として」


「うん、魔術師エドセリクが夢の中で受けた啓示だったって聞いているよ」


「そう。そういう宿命ほしのもとに生まれたの。昼間の夢の中で、呪いを解くための夢を見るようになって、それももうすぐ全貌が明らかになる。それは、呪いを解くときが近いという意味だと思うのね」


「なるほど。そうかもしれないね」


「私が本当に王家の呪いを解けば、もう誰も死ななくてよくなるわ。大好きなきょうだいたちを失わなくていいの。喜ばしいことよね。でも……」



ヴァラは長いまつ毛を伏せた。濃い青の美しい瞳がかげる。馬たちの蹄の音が小径にのどかに響く。


「もしも呪いが解けたら……私はもう、王家には用なしよね……」


「そんなことないよ。きみは第七王女だろう、現王の娘で王太子の妹だ。これからも用なしなんてことは絶対にない」


「でも、呪いを解いた後の魔女の血を引く娘なんて、きっと父上は処遇に困るのではないかしら。だから私は、呪いを解いたら王女としてではなく、魔女としてどこかに行こうかと思うの」


「どこかって、どこへ?」


「まだわからない。ここではないどこか。誰も知らないようなところ」


「そんな。みんな反対するよ」


「もうすぐハイデが外国に嫁ぐわ。そのうち、バルだって呪いが解ければ安心して王太子妃を迎えられる。イギーだってイェルだって結婚するだろうし。魔女の血の王女なんて、彼らの結婚相手はきっと嫌がると思うの」


「彼らならば、魔女の血の王女を嫌がらない相手と結婚すると思うよ」



えっ、とヴァラは顔を上げ、頼りなげな表情でヒューを見た。ヒューは微笑んだ。


「きみが呪いを解いた後でも、彼らのきょうだいであり、王の娘であることには変わりはない。呪いを解く前だって解いた後だって、きみはきみだろう?」


「……」


ヴァラはしばらくの間、口をぽかんと開けてヒューを見つめたまま馬の背に揺られていた。そしてふと表情を緩めるとくすくすと笑いだした。


「ヴァラ?」


ヒューが首を傾げる。ヴァラはふるふると首を横に振った。


「不思議ね。あなたに言われると、そうだなって思えてくる」




あの時、ヴァラの不安が見えた。



魔女姫とか呪いを解く者とか言われて、彼女も重圧を感じているのだろうとは思っていたが、呪いを解けば自分が王家にとって用なしになるのではないかと考えていたことを知って、気の毒に思えた。


呪いを解くためだけに生まれて来たから、呪いを解けば存在理由がなくなる。そんなことはない。


彼女がどこかへいなくなってしまうなんて、嫌だ。


ずっとそばにいてほしい、ずっとそばにいたい。


言いたかったけれど、言えなかった。


その言葉に責任を持つことは、ヒューにはできなかった。彼には家が、父が決めた婚約者がいるから。今の婚約者の顔も知らないし彼女に対して何の感情もないけれど、仕方がない。


たとえ結婚式の当日に初めて会ったとしても、仕方のないことだ。だからヴァラに何も約束はできないのだ。


華奢な彼女を抱きしめて、折れそうなほど抱きしめて、好きだと、ずっと一緒にいたいと、離れたくないと伝えたい。でも、言えない。


ヒューはため息をついた。彼の心の中にはもう、かなりの占有率でヴァラがいる。


それなのに、どうすることもできない。


この気持ちを、ないことになんてできない。




「魔術師エドセリクを信じることにする」と、バルは言った。あれはいったい、どういう意味なのだろう。


バルが自分から説明しないときは、こちらがいくら訊いても教えてくれないに決まっている。それは長年の付き合いでよくわかっている。



魔術師エドセリク。


ヴァラの母方の祖父で、二百年前に王家に呪いをかけた魔術師の血を受け継ぐ男。


ヒューにかけられた呪いに対して、守護の剣を授けてくれた人物でもある。会ったことはないが、彼の剣の守護の呪とヴァラの使い魔ふわふわ雪は両方とも彼による。


出会う前から、ヒューとヴァラは彼による接点を持つ。


その意味を、おそらくバルは知っている。


知っているけれど、教えてはくれない。


「……」


シュタインベルク侯爵家の邸の門扉が見えてきたころ、ヒューは馬上で深いため息をついた。

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