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第14話
「あ」
ほとんど同時に、力のない声が漏れた。
作業台のふちで横倒しになったまま引っかかっている瓶から液は床にぽたぽたと滴っている。
「……」
一瞬、頭の中が真っ白になったが、すぐに我に返りヴァラははっと息をのんだ。
「ヒュー! 早く早く、手を洗って!」
「あっ、えっ……ああ!」
はじかれたように立ち上がり流し場に向かい、井戸のポンプを押す。冷たい水が流れ出てきて、ヒューは急いで自分の手を流れ出る水にさらす。
すぐにヴァラもその隣に来て手を差し出し、顔を洗う。
「飲まなければ、平気だよね?」
ヒューの問いに布で顔の水滴を払うヴァラは、困ったようにうーんとうなる。
「たぶんね。もしかして、肌から吸収してしまうかもしれないけれど……」
ヴァラの体がふらついて、彼女は流し台のふちに
「ヴァラ?」
「こんなときに、だけれど……眠い……」
かくり。
ヴァラの首が垂れ、全身から力が抜ける。ヒューはヴァラを抱き上げてソファまで運び、長椅子にそっと彼女を下ろす。
いつものいねむりが始まった。
ヒューは混合液がついていた自分の手の甲を見つめ、ヴァラの向かいのソファに身を沈めた。
「大丈夫かな……?」
遠くで空が
屋根の上にまで大きな雨音が到達し、魔女の小さな庵が大雨に飲み込まれる。
そして窓の外に閃光。
「あー、うそだろう……?」
狂ったような土砂降りだ。
ヴァラは安らかな寝息を立てている。
彼は自分の手の甲を見つめる。ほ
れ薬と媚薬の混合液って……幸いなことに、彼には何の変化も感じない。経口摂取しなければ効果が出ないか微々たるものかなのだろうか、あるいはほんの数滴だったから足りなかったのだろうか。
あるいは……ヴァラには大変申し訳ないが、彼女が半人前だから失敗作に終わったのだろうか。
どれも謎だ。
まるで外から水をかけ流して窓を洗っているような雨を見て、ヒューは深いため息をついた。
とりあえず、ヴァラが目覚めて雨が止むまではこのまま待つしかない。
くうん、と足元で毛玉のような子犬姿のふわふわ雪が鳴く。
つぶらな黒い瞳が人懐こくヒューを見上げている。その愛くるしさに耐えられず、ヒューは眉尻を下げて笑みながら毛玉のような子犬を持ち上げて胸の上にのせ、やさしく撫でる。
「お前に悪気はなかったんだろうけれど、嫌がっている相手にじゃれつくべきではないよ?」
ふわふわ雪は首を傾げる。
「この雨……まさかこの家、流されないよな」
屋根をたたきつける狂ったような豪雨にヒューは少し不安になる。
ヴァラが目覚めるほうが先だとしても、雨が弱まるか止むかするまでは、城には戻れないだろうと思う。
「ん……?」
眠りのふちからゆっくりと浮上する。
頭が痛い。
ヴァラはうっすらと目を覚ますと、首から下げた小さな手帳に今見た夢の内容をのろのろと書き出した。なんだか、おかしなほどに手が重い。くらくらとめまいまでする。
全身が重い。なんだろう?
書き終わり、手帳をペンをテーブルに置く。目の前のソファには誰もいない。大きく息をつき、ソファにもたれかかる。
激しく屋根をたたきつける雨音。吹きすさぶ強風が、木々を激しく揺さぶる葉ずれの激しい音。
嵐だわ。ヴァラは目を軽く閉じる。
すぐに目を開けてあたりを見回す。立ち上がろうとすると床がぐにゃりとゆがんだ。
「ヒュー? ふわ雪?」
かすれた声は嵐の
しかしそれは、ひとりと一匹に届くには十分な声量だった。
奥の作業部屋から小さな毛玉が飛ぶように走ってきてヴァラの膝に跳ね上がり、彼女の左手の指を舐めた。ヴァラは口元をほころばせて小さな毛玉を力なく撫でる。
「目が覚めた?」
作業部屋から出てきたヒューはぐったりとソファにもたれるヴァラを見て驚いて駆け寄ってくる。「ちょっと失礼するよ」と断ってから、ヴァラの額にそっと触れる。
「熱っぽいな。もしかして、あの薬が効いてきたか」
ふう、と息をついてヴァラはかすかに笑む。
「あなたは、なんともなかったね……」
「飲んだわけではなかったし、ほんの数滴ですぐに洗い流したからかな。きみが眠っている間、魔女殿の書架を拝見してた。でも何の変化もないみたいだ」
「そう……」
「外はもう、本格的な嵐だ。弱まるまで戻れないね。幸い、ここにいることは先に戻られた王女殿下と王子殿下からバルには伝わっていると思うけれど。あれ? まさか……ヴァラ?」
ヒューはヴァラの前に膝をつき、彼女のぐったりした症状に嫌な予感を抱く。
ヴァラは熱でとろけて潤んだなまめかしい瞳で、ヒューのブルーグリーンの心配そうな瞳を見つめて、こくこくと頷く。
ヒューは途端に得体の知れない不安に襲われ、本能的に危険を察知してそっとヴァラから離れようとする。
「さっき……薬が目から入ってしまったのかもね……」
「あー、それはまずいな……」
動揺して早く離れようと立ち上がるヒューの手をつかみ、ヴァラは今にも泣きそうな表情でヒューを見上げた。
「待って! どこにもいかないで……何だか……すごく不…安……」
すがりつくようなか細いかすれ声と細い指先から伝わってくる熱に、ヒューはその場で固まった。
「わ、わかった、ちょっと待って。いるよ、いるから……大丈夫、いや、大丈夫じゃない……じゃなくて」
自分の手首に巻き付く細い指を一本ずつ丁寧にはがしてそろそろと後退して、ヒューは慎重に向かい側のソファに腰を下ろした。
普段は冷静な彼も、すぐ目の前にほれ薬と媚薬の混合液が効いている美女が瞳を潤ませて心細げに見つめてくると、平常心を保つのが難しくなる。
ヴァラは年齢よりも大人びていて、感情が高ぶった今のような状態では驚くほどの色香を漂わせている。
これは薬のせいだと、何度も彼は自身に言い聞かす。そうすることで、理性を手放さないように努力している。
ヴァラは右手で自分の胸を抑え、左手はヒューを求めて宙をさまよわせている。
「これは……なに? 胸が、すごく苦しいの。苦しくて……悲しい……」
それはたぶん、作為的な恋煩い。薬のせいだろう。
「ど、どうしたらいいんだ? あ、いや、その、本来の方法以外に!」
慣れない状況にヒューは焦る。
ヴァラの瞳は涙で艶やかに潤んでいる。頬はバラ色に染まり、紅い唇がかすかにふるえている。
胸を押さえて苦しげに吐息を漏らすと、ヴァラは足元もおぼつかないまま立ち上がり、入り口の扉の取っ手に手をかけた。
ヴァラの膝の上から転げ落ちたふわふわ雪が床でころころとに回転して起き上がり、楽しそうにくるくる回る。
「あっ、ちょっと、ヴァラ! どこに行くつもり? 外は嵐だからっ……」
ヒューが立ち上がるより先にヴァラは扉を開いた。
ものすごい勢いの雨と風が吹き込んでくる。ふわふわ雪が強風で作業場のほうへところころと飛ばされた。
するりと、ヴァラは狭い隙間から外に出てしまう。
「ヴァラ!」
ヒューはすぐに後を追う。
ヴァラは雨に打たれ風になぶられながら庭に佇んでいる。強風が彼女の体をさらい、横によろめいた。
ヒューはとっさに細い手首をつかんで引き寄せると、華奢な体を腕の中にとらえた。
薬の効果で敏感になっているのか、触れられると彼女は小さな悲鳴を上げて苦しげに喘ぐ。
ヒューから逃れようと弱々しい抵抗を試みるが、彼の強い力にはあらがいようもなく、彼女は家の中に連れ戻された。
二人とも水をかぶったみたいにずぶぬれだった。
朦朧としたヴァラはヒューの肩のくぼみに頭を預け、せつなげなため息を漏らし、かすれた声でつぶやく。
「熱い……暑くて、苦しいの。もっと雨に当たりたい……」
そしてふいに、彼女はヒューに抱きかかえられたまま気を失ってしまった。
「ヴァラ! おい、ちょっと……!」
腕の中でしおれる花のように崩れるヴァラを抱きかかえ、部屋を見回した後、ヒューは暖炉の前の毛足の長い敷物の上に彼女を下ろした。
「ふわふわ雪!」
ヒューが呼ぶと、毛玉のような子犬は転がるようにすぐに二人のそばに寄ってきた。
「お前が私の言うことを聞いてくれるかどうかわからないが、どうかお願いだから、あの大きなオオカミの姿になってくれ! 今から暖炉に火をくべるから、お前はここであるじを受け止めて温めていてほしい」
言い終わるか終わらないかのうちに、ふわふわ雪は巨大な白いオオカミの姿に変身する。
敷物の端のほうに伏せると、腹の部分に熱に浮かされるヴァラを受け止めた。
ヒューは急いで火打石で暖炉に火をくべる。屈み込む彼の前髪からはぽたぽたと雨のしずくがしたたり落ちて床を濡らす。
テーブルから椅子を四脚引いてきて、敷物の両脇に並べる。
ヴァラに駆け寄り上半身を起こして支え、彼女の靴と
濡れた衣服を作業部屋の流しに持っていく。それらを固く絞り、自分のコタルディとシャツも脱いで水気を搾り取る。それらを持って戻り、イスの背もたれに干した。
くうん、とオオカミ姿のふわふわ雪がヒューを呼ぶように鳴く。裸のヴァラをふわふわ雪がしっぽで包んでいたが、彼女はあまりの熱のために震えている。
ヒューは彼女の顔を覗き込み、その頬に触れる。
「ヴァラ、もしかして暑いのでではなくて、寒いの?」
彼女はうっすらと目を開いて、苦し気にヒューを見上げ、弱々しく頷いた。
「ヒュー……寒い、さむいの……」
彼女の歯がかちかちと小刻みに音を立てる。ヒューは暖炉にまきをくべる。
ふわふわ雪の毛皮であたたかいはずなのに、ヴァラは震え続けている。
外はまだ嵐が吹き荒れている。
暗くなってきた森の中、この雨風では誰かを呼んで来ようにも行きも帰りも時間がかかって難儀になりそうだ。そのあいだ彼女を一人で置いてはいけない。どうしたものだろうか?
こんな場合、どうすることが最善なのだろうか。考えろ、冷静に最善策を導き出せ。
か細い手が彼を探して宙をさまよっている。
困惑、狼狽、貴族の子弟としての矜持や王家への忠誠心、自分の、あるいは自分の家の社会的な立場。信頼、友情、ヴァラの王女としての立場や評判。それを
考え始めて数十秒後、結局彼の出した最善策は、ヴァラを守るということだった。
彼は意を決して彼女の宙をさまよう手を取った。
そっと近づいて彼女の腕を引いて、自分の腕の中に彼女を抱き寄せた。
まだ雨の雫の垂れる彼女のアッシュブラウンの髪からふうわりとバラの花の香油が香り立つ。一瞬、目がくらむ。
すぐに無理やりに正気を保つ。
ぐったりと彼の肩のくぼみに頭を預けているヴァラの柔らかな体が、徐々にヒューの体温になじみ始める。ガチガチと鳴っていた歯の根もおさまり、やがて小さな寝息が聞こえてきてヒューはやっと少し安堵した。
その夜はヒューにとって、今まで生きてきた中でも最も長く感じた気の休まらない夜となった。
まるであれだ、そう、砂漠の中をさまよい、極限の状態の中で悪魔と対峙しているような。
彼はヴァラを横抱きに膝の上にのせ、隙間のないように抱きしめている。ヴ
ァラは時々、熱に潤んだ青い瞳をうっすらと開けてヒューを見上げた。雨に濡れた矢車草のような青い瞳が、頼りなげに揺れる。華奢な腕がヒューに巻き付いて彼の背をさまよう。
無自覚か意識的か。薬のせいだとはわかってはいても、自分に張り付いてくる弱々しい力に惑わされそうになるのを死ぬ気でこらえる。
「半人前だから」という言葉が申し訳なくも心に引っかかっている。
ヴァラが作った「混合液」なるものは、ほれ薬の効果は百歩譲ってなんとなく当てはまったとしても、媚薬の効果はあまりないように思う。
代わりに、風邪のような……熱に浮かされる症状をもたらしているようだ。ヒューはヴァラの額にそっと手を当てる。まだ少し熱い。
自分の首に絡みつく細い腕をそっとはがし、ふわふわ雪のしっぽをかけてくるんでやる。
彼は作業部屋の流し台に行き、桶の中に冷たい井戸水を張り、木のゴブレットにも水を汲みテーブルへ向かう。
そこには怒って飛び出していったハイデがおいて行ってしまったバスケットがあり、四人分の軽食が入れられていた。その中を覗き込み、彼は布を一枚取り上げるとそれを桶の水に浸してヴァラの元へ戻った。
ふわふわ雪がヴァラを支えながら心配そうにヒューを見る。
「ヴァラ」
ヒューはそっとヴァラのこめかみのあたりに触れる。そのまま頭の後ろに手をさし入れて持ち上げる。彼女はうっすらと目を開けてヒューを見上げる。
「水、ほしい?」
こくりと彼女は小さく頷いた。
彼は水が逆流しないように細心の注意を払って彼女の頭を支えて、なるべく垂直にしてその赤い唇にゴブレットをそっと持って行った。ゴブレットを持つヒューの手に熱い指先が触れる。
ヴァラはこくりこくりとゆっくりと冷たい水をのどに流し込む。
ヴァラの表情から険しさがようやく消えて、ヒューはほっと溜息をついた。ゴブレットを床に置き、ヴァラの頭から手を放す。
そして冷たい水で絞った布で彼女の額をそっと拭いてやる。目を閉じたヴァラは気持ちよさそうに口の両端をかすかに引き上げる。
それから彼は立ち上がり、イスの背もたれに干してあったヴァラの麻の
漆黒の闇の外はまだ雨風が狂ったように吹き荒れている。
「……ヒュー」
ヴァラが震える手を差し伸べる。ヒューはその手をやさしく包む。
「なに? もっと水が欲しい?」
ヒューを見つめ、ヴァラは弱々しく首を横に振る。彼女は両腕を彼の首に巻き付けて、彼に体を預ける。
「どこにも行かないで……ここにいて……」
かすれる声は心細そうに震えている。なぜ、なんなのかはわからないが、心臓をわしづかみされたような奇妙な苦しさに襲われてヒューは息をのむ。
しがみついてくる華奢な体を抱きとめ、彼の腕の中にすっぽりとおさまる小さな背中をやさしく撫でる。
「いるよ。いるから、安心して眠りなよ」
ヴァラはかすかに微笑んで目を閉じた。
それから小さな呼吸が規則正しく聞こえてくるまでにはそんなに時間はかからなかった。
薪がぱちぱちと暖炉の中で
細やかな火花が散る。
小さな家をなぶる激しい雨と風の音。荒れ狂い翻弄される木々のこすれあう音。
ヒューは腕の中の柔らかな体温をやさしく抱きしめた。
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