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第9話

庭園に子供たちの歓声が上がる。



少女の透き通る声、幼い少年の高い笑い声。



甘やかなバラの芳香が漂う庭をのんびりと横切るヒューは、バラの垣根の隙間から目の前に飛び出してきた小さな白い毛玉のような子犬を見て目を細める。


「やぁ、ふわふわ雪じゃないか。またあるじのそばを離れてしまっているのかい?」


小さなしっぽをぷりぷりとちぎれんばかりに左右に振り、ふわふわ雪は嬉しそうにヒューを見上げる。


ヒューは屈みこむが、今日は腰の革ベルトの大ぶりな剣がじゃまをする。彼が右手を差し出すと、子犬は小さな舌でぺろぺろと指先を舐めてきた。あまりのその愛らしさに、ヒューの目じりはついつい下がってしまう。


「あっ!」


「あっ!」


少女と少年がほぼ同時に叫ぶ。


転びそうな勢いで飛び出してきた二人は、ヒューを見て驚いた。




薄紅のコタルディを着た少女は十歳くらいだろうか。ブルネットの長い髪を青いリボンで耳の下で二つに結んでいる。つぶらな瞳はリボンと同じ明るいブルー。


少年はまだ五歳くらいだろう。濃い茶色の髪を肩まで伸ばし、瞳はめずらしい琥珀色。茶のチュニックに若草色のキュロットを穿いている。


二人の視線はヒューの手から彼の肩によじ登ろうとしている子犬に向けられている。少年が屈みこむヒューに寄ってきて手を差し出す。


「ふわふわ雪を返して!」


ヒューは少年の目の高さに視線を合わせて彼の小さな手にふわふわ雪をのせる。


「どうぞ。第七王女殿下にお借りしたのですか?」


「ありがとう。うん、そうだよ。おかりしたの」


少年は子犬を受け取ると胸に抱きしめてその小さな頭にちゅ、と口づけた。二者のその愛らしさにヒューは顔をほころばせる。


「第六王子のフベアト様ですね」


「うん」



そしてヒューはぼうっと立ち尽くす少女に笑顔を向ける。


「では、あなたは」


少女ははっと息をのみ、ヒューを見て耳まで真っ赤になる。


「な、ひ、ひとに名を尋ねるときは、まずは自分から名乗るべきよ!」


くすっと笑って立ち上がると、ヒューは淑女に対する正式なお辞儀をする。


「これは失礼いたしました、王女殿下。私は北家シュタインベルク家のマイヤー子爵ヒューと申します。どうぞお見知りおきを」


少女は正式な礼をされてますます赤くなった。


「は、は、はじめて見るわね。私は第八王女のミンディよ。あなたはどの兄上のお知り合い?」


「なぜ私がいずれかの王子殿下の知り合いだとご推測されるのですか?」


「だって……ここは、普通の臣下ならば立ち入れない庭園ですもの」


「王女殿下は聡くていらっしゃいますね。私は王太子殿下と第四王子殿下と親しくさせていただいております」


少女はほう、とため息をついた。しばらくぼんやりとヒューを見上げて呆ける。



「王女殿下?」


ヒューが首を傾げて微笑むと、彼女ははっと我に返りつん、と小さなあごを突き上げるとすまし顔で言った。


「私、あなたと結婚して差し上げてもよろしくてよ」


弟のフベアトはまったく気にせずにふわふわ雪に夢中である。


ヒューはちょっと驚いてから、すぐに優しげな微笑みをおませな姫君に向けた。


「もったいないお申し出、身に余る光栄に存じますが、私にはすでに婚約者がおります」


少女はぷうう、と頬を膨らませた。ヒューはそのまま笑顔で続ける。


「王女殿下。あの子犬がいるということは、近くに第七王女殿下もいらっしゃるのでしょうか?」


少女は唇を尖らせたまま右手の人差し指を垣根の向こうに向けた。


「ヴァラ姉さまなら、あちらの木の下でお仕事中です」



「お仕事?」


「眠っておられるのです」


「ああ、なるほど」


「姉さまにご用事なのですか?」


「そうです」


「では、あの……さっき、姉さまにちょっといたずらをしてきました。お目覚めになってもどうか黙っていてください」


「何をしたかによりますね」


ヒューはさっきクラム侯に会ったときとは違う意味で苦笑した。




庭園のバラの垣根の奥の広まった緑の原に、一本だけ大きなならの木が立っている。


その木の根元で幹に背を預けて座っている人影が見える。


あと十歩ほどのところでヒューは立ち止まり、思わず息をするのを忘れた。



やわらかな風がアッシュブロンドの長めの前髪をふわりと流す。ハーフアップにされたちょうど結び目のあたりに、庭園に咲いていたであろう白い小さなバラの花が三つほど飾られている。


金糸で草模様の縁取りを刺繍したシンプルな裾長のつゆ草色のコタルディの膝の上や草の上に広がる裾には、薄紅色のバラが無数に散りばめられていた。



十歳くらいの少女の言ういたずらとは、なんとも他愛なく無邪気でかわいらしいものだ。


彼女の「いたずら」のおかげで、いねむり姫はこの世のものとは思えないほど神秘的で美しく見える。起きているときは開かれている深い青の瞳が怜悧な光を宿し、背筋を伸ばした凛とした姿勢が優美だが、眠っているときは長いまつ毛が美しい顔に陰りをおとし、ややあどけなく見える。


昨日見惚みとれてしまったが、今日もまた見惚れてしまう。


彼女の昼間見る夢が王家の呪いを解くカギを知ることになると、バルから聞いた。


いったい、どれくらいで目覚めるのだろうか? 途中で声をかけて起こしてはやはりまずいのだろうか?



彼女が目覚めるまで、いったいどうしていたらいいのだろうか? 眠る未婚の姫君のそばにいたら、あらぬ誤解を受けはしないだろうか?


「……」


いましばらく、その麗しい眠り顔を鑑賞していたい気もするけれど……出直したほうがいいだろうか?


いや、王太子直々の命令で護衛となったのだから、そばにいてもいいのでは?



ヒューが堂々巡りをしていると、ヴァラが瞼を震わせた。衣擦れの音がしてうーんと細い腕を上げて背伸びをしたかと思うと、濃い青の瞳が見えた。


ヒューが言葉を発しかけて口を開くや否や、ヒューに全く注意を向けずに右の草の上に置いていた手帳とペンを手にして、ヴァラは手早く何かを書きこみ始める。片側のページに小さな文字でびっしりと書き込みを終えると、目の前で固まっているヒューにやっと気が付いた。



ヒューはとりあえず愛想笑いを浮かべた。


ヴァラは以外にも少しも驚かず、にっと笑み返し自分の右側の草をポンポンと示した。ヒューは革ベルトから剣を鞘ごと抜いて草の上に置き、ヴァラの隣に座った。


「花まみれだね」


「うん? あ、おちびたちの仕業ね」



ヴァラはやっとそこで自分のスカートの上のバラの花たちに気が付いた。


彼女がスカートの右端と左端をつまんでばさり、と翻すと、バラたちはふわりと浮いて宙でちりぢりになり、花弁の吹雪が二人の前にくるくると舞って草の上やヴァラのスカートの上に落ちていった。


ヒューは目を見開いた。


「これは、魔術?」


「そう。半人前にもできる、子供だましの……役に立たない魔術ね。妹たちはこれが大好きなの」


ヴァラは笑った。


ヒューはまた彼女に見惚れてしまうが平静を装う。ヴァラはヒューの体の向こう側に置かれた剣に目を留める。


「それ……その剣、スペルがかけられているでしょう?」


「え? わかるんだ?」


「わかるわ。バルが言っていた『例の剣』ね。ちょっと見てもいい?」


差し伸べたヴァラの手にヒューは自分の長剣を渡す。


「どうぞ。重いから気を付けて。私が生まれた時の星まわりを気にした祖父がくれた守護の剣なんだ。ちょっと大きすぎて手に余るのが難点だけれど」


「ああ、騎士たちの剣より少し長いみたいね。柄頭ポメルにはめ込まれている石は、ルビー?」


あまりにも深い赤で、少し紫がかって見える、爪の先ほどの石を指してヴァラが首を傾げる。


「それはガーネットらしいよ。勝利をもたらす石だからだとか」


「なるほどね」



ヴァラは握りグリップに手をかけると剣身ブレイドを少し抜く。


真剣なのでヒューは少しだけ緊張する。


ヴァラはブレイドをじっと見つめる。確かにそこには目には見えないがスペルが刻み込まれていて……ヴァラの目にはブレイドの上に浮き出て見える。


「守護のスペル……」


「そうだよ。私が二歳くらいの時に、呪がかけられたと聞いた。魔術師エドセリクの守護のスペルだ」


「え? 私の祖父の?」


ヒューは頷いた。ヴァラはブレイドを鞘に完全に収め、ヒューのブルーグリーンの瞳を見つめてふふ、と笑んだ。


「どうりで、その剣から懐かしい感じがしたの」



なるほど、とヴァラは考える。兄のバルはただ単に面白がってヒューをヴァラに近づけたわけではないらしい。


今度、ヒューの生まれの星回りについて調べてみようと思った。もしかして、なにかえにしがあるのかもしれない。


「それで、どのような手伝いをすればいいのだろうか」


一人前になる手助け? 今日、今すぐにはどうにも頼みづらい、とヴァラは心の中で苦笑する。


「そうね。とりあえずはふわふわ雪みたいな感じ? バルの考えていることはよくわからないけど……」


「ふわふわ雪といえば、第八王女殿下と第六王子殿下に捕まっていたみたいだけど」


ヴァラはそれを聞き、小さくあごを上げて命じる。


「ふわふわ雪、戻っておいで」


「えっ?」



ヒューは驚いて目を見開く。


瞬きもしないうちに、いつの間にかふわふわ雪がヴァラの膝の上に乗っていたのだ。それはヴァラの隣にヒューがいることに気づき、しっぽをぷりぷりと振りながら、ヒューの膝に前足をかけて登ってこようとした。


ヒューはそのあまりの可愛さについ目じりを下げ、その小さい毛むくじゃらの毛玉をそっと持ち上げて胸に抱いた。完全になついてヒューに甘えているふわふわ雪を見て、ヴァラは目をみはる。


「あなたすごく気に入られているみたいね」


「犬好きはわかるのかな」


「この子……犬じゃないけど。犬もどきではあるけれどね」


「え? どう見ても犬だけど?」


ヴァラは笑う。


「じゃあ、オスかメスか、わかる?」


「そりゃあ……」


当然、とばかりにヒューはふわふわ雪を立てた膝の上にあおむけに寝かせ、腹の毛を指でかき分けた。そこに丸い突起物を見つけてくすっと笑う。

「あれ、でべそだ。かわいいね」


しかし次の瞬間、彼は首を傾げる。オスであるならばでべそのすぐ下のあたり、メスであるならば後ろ足の間くらいに……あるべきものが全くない。ないということは……オスなのかメスなのか、判別不可能だ。



「……こんなことって?」


「この子はね、私の使い魔なの」


「使い魔?」


「そう。私が生まれた時に祖父がくれたの。生まれた時から一緒にいる。もしも普通の犬ならば、こんなに元気でいられないくらい老犬のはずでしょう?」


「魔術師エドセリクが?」


「ふつうは使い魔は自分で契約するの。でも、この子の場合は祖父の代理契約ね。私はまだ半人前だから、この子を完全には使いこなせてはいないし……」


「一人前になるのはいつ?」


「それは……そのうちね。さて、では初仕事をお願いするわ。森の魔女の家まで行こう。さっき見た夢のことで彼女に訊いてみたいことがあるから」


「今から?」


「そう、今から。ふわふわ雪、お留守番をお願いね」


ヴァラがそっと草の上に小さな体を下ろすと、ふわふわ雪の姿はヴァラとうり二つになった。


ヒューは驚きを飲み込む。ヴァラの姿のふわふわ雪はぱちぱちと瞬きをすると、くるりと身を翻し、北の塔のほうへ去って行った。



「では」


ヴァラが首を傾げて微笑む。


ヒューは頷くと先に立ち上がり、左手に剣を持ち右手をヴァラに差し出した。ヴァラはその手の上に自分の手を置いた。


ヒューがヴァラを引っ張り上げると彼女のスカートから薄紅の花弁がひらひらと散った。

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