once in a blue moom

しえる

恋愛運のない男

1

第1話

6月最後の金曜日の19時20分、副社長室の扉がコンコンコンと3回ノックされる。




「財前、あと少し待つように伝えてお茶でも出しておいて」


海外の複数支社とのオンラインの会議中の副社長がヘッドセットをずらし、マイクを抑えながら財前に素早く伝えた。


「承知いたしました」


財前は頷くと、ドアを開けに向かう。


「こんばんは、財前さん」


ドアが開くと、華やかな美女が微笑んで小さな声で言った。


「今晩は、夫人。あと少しかかるそうですので、ソファへどうぞ」


財前は微笑み返した。




「どうして、小声だったんです?」


財前は夫人の好きな紅茶を出しながら訊ねた。すると夫人は少し肩をすくめてデスクのほうを左手の人差し指でちょいちょいと示し、くすっと笑った。


副社長室ここのドアが開いてあのひとが出迎えないということは、オンライン会議か誰かと話してるってことじゃない?」


財前は笑みを浮かべた。


「なるほど、さすがです」


「それを待っている財前さんもお疲れ様です。金曜はNO残業DAYなのにね」


「はは……海外支社はどうしても時差の関係で多少は仕方がないですね」




NO残業DAY。


それは2年前に決められたルールだ。


働き方改革の一環ではあるが、これを決定したのは副社長だ。社員たちはみんなこの決定を称賛したが、財前だけは本当の理由を知っている。


副社長は金曜の夜間クラスの料理教室に通うために、この制度を作ったのだ。




2年前、著名な料理研究家であり料理界の重鎮のひとりである高柿ふみ子氏に仕事の依頼を受けてもらう交換条件として提示されたのが、彼女の調理学校が主催する料理教室への参加だった。独りで通うのは嫌だと駄々をこねた副社長の付き添いとして、財前も強制的に通わされた。



藤倉グループ会長の次男にして株式会社サペレの副社長である藤倉瑛士が、料理教室で男性のみの落ちこぼれクラスに7か月間通わなければいけない羽目になった。


しかも担当の講師は彼が買収した老舗洋食店の娘で、買収を撤回してほしいと会社に乗り込んできた豊嶋紗栄だった。


副社長は彼女をかなり冷たくあしらった。


それなのに。


最悪の出会い方をしたのにもかかわらず副社長は彼女に一目ぼれしてしまったようで、気まずい再会をした後も嫌われていることに傷ついていた。




「俺は嫌われている」


「避けられている」


「義務的なことしかしゃべってくれない」


「俺にだけ態度も口調も冷たい」



料理教室に通っていた(=通わされていた)あいだ、何度聞かされただろうか。家業を継ぐことを夢に見ていた彼女からその店を買い取ったのだから、恨まれても仕方がないと財前は思っていた。ましてや、彼女にしか知り得ない老舗店の完全レシピを狙って近づいたと誤解され、余計に警戒されていたのだ。


(これはいくら副社長でも無理だろうな……)


財前はひそかにそう思っていた。




藤倉瑛士という人は、たいていの人たちの憧れの存在だ。事業家一族の次男に生まれ、経営の手腕もセンスも素晴らしい。兄の社長よりも優秀だと噂されているし、実際、まだ若い会社を大企業のひとつに押し上げたのは彼の力が大きかった。海外の有名な経済誌でも度々注目されることがある。


そのうえ外見にも恵まれていて、独身時代は妻の座を狙う女性たちが後を絶たなかった。彼に近づきたいがために、まずは秘書の財前に近づいてくる狡猾な女性もたくさんいた。



そんな彼が2年前に老舗の洋食屋の娘に惚れてプロポーズした。そして去年、彼女を妻にすることができた。料理教室の同じクラスに橋本さんという恐妻家の主夫がいたが、うちの副社長も愛妻家というよりはそっちに近いのではないか、と財前は思っている。


プロポーズの時に贈った指輪は、南アフリカ産のローズピンクのファンシーダイヤモンド。1.5カラットで、値段を聞いてびっくりしてしまった。たぶん夫人は正確な値段は知らないだろうし、もしかしたらピンクサファイアぐらいに思っているかもしれない。


とにかく(まだ新婚ということもあるが)彼は妻にベタ惚れで、妻への忖度は度を超すことが多かった。




結婚式には999本の赤い食用バラエディブルローズを新婦に贈るために用意した。



赤いバラは贈る本数によって意味が変わってくる。


有名なのは1本で「ひとめぼれしました」、3本で「愛しています」、11本で「あなたは私の最愛のひとです」、そしてプロポーズでよく使われる12本の「私の妻になってください」くらいだろう。


ところが彼は999本用意する気満々でいた。意味は、「何度生まれ変わってもあなたを愛する」だ。




財前のような平凡な男には、到底思いつかないし実現もできないプロポーズだ。いやたぶん、12本くらいならいけるだろうけど。


けれど、もらうほうも一筋縄ではいかない。普通のバラではなくて食用のバラならもらってあげるわ、と言い放った。


結局、それらのバラは新婦の手によってすべて加工され、お茶やジャムになって後日参列者に配られた。



そんな彼の重すぎる愛を時にはうまくスルーし、時にはやんわりと受け止め、紗栄夫人はとてもうまくやっていると財前は感心している。


「私は溺愛させてあげているのよ。私もお返しに溺愛してあげてるけどね」と冗談めいた口調でさらりと言うようなひとなので、あの気難しい副社長ともうまくやっていけているのだろうと思う。




「それで財前さんは退勤したらまたいつものどちらか・・・・と飲みに行くのかしら?」


紗栄夫人が紅茶を啜ったあとに片眉を上げてからかうような口調で言った。



財前はははは、と乾いた苦笑をして答えた。

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