episode 5 使いの羽根を手にして

 何の夢も見ずに二〇二〇年八月二十日七時二十八分にベッドで目を覚ました私は、出窓から射し込む明るい世界と寝汗の重さに、あと一日か、今日も朝から暑いなと思って机の時計を見た。

 えっ、二十日?

 ぞくりとして頭を抱える私、今日は十九日のはずだった。電波時計が一日もずれるわけがなく、時計の表す世界が二十九分になるころには自分に前日の記憶がないのだとわかった。そして私は十八歳になった。

 私は今日、死ぬ……。

 昨日の自分が覚悟して眠りについたかどうかはわからないけれど、今も私は「強迫性障碍を治す」より「苦痛を捨てて翠と再会する」が上にある状態だった。七時半、下りていって朝ご飯を食べる必要すら感じられない。この赤くすり切れた手も洗わなくていい。

 私は汗か涙か冷たい頬を腕でぬぐった。厳密さを要求されても早朝生まれだし、すぐにでも不思議な力が使える。神主さんに教わった祈りで〝使いの羽根〟を呼び寄せればいいのだ。

 ところが、まさかの想定外なことが起こる。

 軟弱なインターフォンの音は二階の私の部屋にも届いた。

 今のご時世、こんな朝早くに誰だとため息をもらしたときだった。

「藍ーっ! まだこっちにいるかあーっ?」

 これは少しくぐもった司の大声、この部屋に向かって外から叫ぶおばかさん。うそでしょ恥ずかしいと死ぬ気でも思う私、それに「まだこっちにいるか」って、あいつやっぱり私が死後の翠の世界に行きたがってるって気づいてたんだ。

 訪問者が誰かわかってむだにどきどきしだした身体に、下から「藍、司くんが来てくれたわよ! リビングに入ってもらうからねー」とお母さんの声が響く。状況が理解できてるからあっさり司を家に入れてしまい、私はぎゃっとなった。

 どうしよう、いくら幼なじみでもよれたパジャマにぐしゃぐしゃの顔と髪はちょっと。最近の私は洗面所でしか着替えられず、その前にトイレも使いたい。出ても手を洗う時間をとらなければいけないし、でも食事があとなら手洗いは軽くすませられるか。

 私は何とかそれに近い手順を実行したものの、マスク姿の司を十五分待たせてからやっと居間とつながる食堂に顔を出せた。常識に従って考えた通りにできるなら強迫性障碍ではないのだ。

「――つ、司、急にどうしたの?」

 不要な問い、お母さんが台所に逃げる。

「今日は不思議な力を使うまで、その、藍を見張ってるから」

 何と居座る気か、こうなると私の自由には進められそうにない。

 いや、おそらく彼に邪魔はできない。死にたきゃ私が勝手に死ねばいいんだ。

「朝ご飯食べるから、司はそっちでテレビ観てて」

 離れているほうがいいし、ずっと監視されるなら今は見られたくなかった。

「司くん、藍は手洗いに時間かかるから先に部屋に行ってたら?」

 私の食事が終わる間際、お母さんがすごいことを言う。幼なじみとはいえ、十八歳の娘の部屋に男を率先して入れようとは普通しない。きっ、とにらんでもそ知らぬ顔をされ、司も司であっさり従って階段に向かった。

「ああもう……」

 今日は誕生日なのに。一人娘から逃げたお父さんは出勤後とはいえ、まだ誰からも祝われずに落胆するのか私は、そんなことで。

 しかし着たばかりの服も替えて再び十分は手を洗って恐る恐る部屋のドアを開けると、勝手にエアコンをつけて向かいの壁に寄りかかった司が面倒くさいことを言ってきた。

「ええとその、藍が不思議な力を前向きなことに使ったら、お祝いしてあげるから」

「先に十八になったからって偉そうに」

 彼は私が死ぬつもりだと理解している。でも私は実際に死を選ぶか正直わからなかった。翠の代わりはこの半年強で誰にもできなかったけれど、本当は死んでも彼女との楽しい生活が手にできるとは限らないと知っている。

「藍、翠を追いかける以外の選択肢は何がある?」

 念のために距離をとってベッドに腰かけると司が言った。私はそばにあったぬいぐるみを投げつけそうになってこらえ、「病気を治す、それだけ」と返す。自分が正直に答えるとは思わなかった。

 彼はうなだれて何を考えているのか、しばらく微動だにしなくなる。その間じっと彼を見続ける私も変わり者だけど、好きなんだからしかたない。二人の沈黙は私に外の蟬を教え、気が遠くなるような暗い子供生活を終えたら一瞬を恋のみにささげる蟬、そういう生き方もある。気が遠くなるといっても、私の十八年よりは短いんだっけ。

「――それ、答えられるだけでもう結論出てるって思わない?」

 何分経ったろう、今度は洗濯機の音が始まったときに司が言った。少々混乱しかけたけど、私の「病気を治す」への返事。

「じゃ、じゃあ強迫性障碍を治すのに使えっていうの?」

 私は彼に訊き返した。彼は私を見つめて深くうなずき、「そのために来た」と答える。どうせ私の祈りを物理的に妨げることもできないくせに。

 洗濯機の次は救急車の鳴き声がきいきいぎいぎい高まり続け、心が締めつけられる。さあこれを契機に祈ってしまえ、祈りで〝使いの羽根〟を呼び寄せろ! よし――、

 え? 使いの羽根だと思ったら遠くで翠が笑っている。

 ――藍、誕生日おめでとう、私が見守ってるんだからいいことあるよ……。

 うわあ翠、私は翠のいる場所に行きたい。祈りながら目が熱くなって……今度こそ使いの羽根が舞い降り、お父さんお母さん、通せんぼしてるのは司のたくましい両腕、どうする? どうしたい?

 十八歳になった私は使いの羽根を手に誰もいない大空を見上げた。

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