episode 3 ファンタジーの使い道

 長く沈んだ梅雨を過ぎ、本格的な夏になった。

 エアコンが壊れたら夜でも死にかねない暗い部屋の隅で壁にもたれ、私は隣で笑う翠の横顔を思い出していた。彼女はただ寄り添うだけでなく、私の格闘をしっかり聞いてほめてくれたし、「あなただけじゃない」という最低な言葉はけして口にしなかった。

 私は彼女に会うべきなのだろうか、だからそれは正しくないんだってば。うん?

 ふいに彼女が司と机の辺りで談笑している気がして振り返る。当たり前だけどエアコンの音だけ、蒼い残像もない。ただまるで彼が奪っていったみたいにドアが開いている――、閉めたはずなのに。

 翌日、たった一人の私の元に二日連続でおばかさんが現れた。司はまだここにいてくれる。昨晩の彼に奪われたなら翠もいるんじゃない? 制服姿を見るのは久しぶりだと言ったら、授業の遅れを取り戻すために真夏の今もマスクをして登校させられているらしい。なるほど夏休みが短くなった学校の話はニュースで知っていた。

「それで、今日は何、どうしたの?」

 緊張で隠し忘れていた手を慌てて背中に回し、門に隔てられた玄関前から訊ねると、「十八歳の、誕生日、藍が……」と汗だくでもごもご言いだす彼。今日はTシャツの昨日より厚着だけどその程度の汗なら歩いてきたらしい。

「私の誕生日、何日だっけ」

 話を引き継ぎながら彼の狙いからそらす。

「不思議な力、使わないのかなって」

「だから、北守藍の誕生日は? いつか答えなさい」

 私は自分に不思議な力の話をさせようとする司をねじ伏せる。

「――はっ、二十日だよ。生年月日は二〇〇二年八月二十日」

 彼は正しく答えた。生まれて十八年が経つ二〇二〇年八月二十日はちょうど一週間後である。

 ふと思うことがあった。

「ねえ、これ訊くの最後にしたいけど、私にいじいじからんでくるってさ、やっぱりその『神宮寺』っていう苗字と『司』っていう名前が関係あるんじゃないの?」

 神宮寺司。過去に何度もしてきた問い、不思議な力と関係してそうな神秘的な名前。彼の家は神社でも寺でもない。私だって「北守」や「藍」とは関係なく不思議な力を持って生まれてきたから期待するだけむだである。

「俺もほしいけど関係ないよ、藍と知り合ったのもただの偶然。でも、相談にはいくらでも乗るから」

 彼は最後の一言を頬を赤らめて言い、腕で何度も汗をぬぐった。

 小さいころに神主さんが見つけてくれた私の力、一番したいことができない不思議な力を、もちろん私は使わないつもりはない。この力は二万人に一人か二人の確率で持って生まれ、十八歳の誕生日に自分を含む誰か一人に対して一つだけしてあげられる。病気を治すこともできるものの、あくまで一人が対象だから、例えば今のはやり病にかかった全員を治したり原因自体を根絶したりするのは不可能。また、原因が一つなら死にそうな人を健康にもさせられるけど、死んだ人を生き返らせることはできない。一つだけのファンタジー、逆に人殺しもある特定の相手を除いて無理である。

 では、私は何をしたいのか。

「――藍、前に翠が言ってたけど、その力で病気を治すんだよね」

 私が考えていることを司が口にする。

「病気って何? ウイルスによる肺炎?」

「どうしてそういうこと言うんだよ」

 めずらしく彼に叱られた。

「ああ、それは……、まだ決めてないの」

「どうして、他に使い道、誰か治したい人がいるとか?」

 彼は病気にこだわっているらしい。

「わかんないよ? かなわぬ恋を成就させる人もいるんだから」

 遠い空を便数が減った飛行機が突き進む。私は音に空を見上げ、あの飛行機に乗れる人数くらいまとめて不思議な力が使えたらいいのにと思った。私が一番したいことではないから現実逃避なのだけど――、

「じゃあ藍は、誰が好きなの?」

 どくんっ。

 司のくせに、とんでもないことを訊いてきた。つい視線を下ろして彼を見た私は逃げたくなったけれど、ここで目をそらしたら鈍感な奴にも気づかれる。ひりひりしながら必死に視線を固定して、ああこれでは逆に怪しまれるかと結局彼から目をそらしてしまう。

 そう、私はこんな神宮寺司が好きだった。こんな状況では好きな人とやるべきことがほとんどできないし、幻のようなものまで見るようになったけど、それでも恋はしていた。

「――い、言うわけないじゃん」

 私は彼と恋に抵抗して背を向ける。とにかく暑い、恋は秋か冬にすべきだなと実感した。私が最初に恋を自覚したのは確か、環境が大きく変わった高一の春だっけ……。

「そうだよな、俺なんかに言うわけない」

 鈍感すぎる司は気がつかずに下を向き、道路の小石をって駐車中の車に当てた。

 私の不思議な力、過去には難病や障碍を治して奇蹟と呼ばれた人、具体的にどうやったのか独裁者の失脚につなげ、多くの人々を救って英雄になった人もいる。私が一番したいことは――、

 翠とまた一緒に学校に通うこと。

 するする涙がこみ上げた私に、司が驚いて「ごめん」と謝り汗を飛ばし、我が北守家の前を去っていく。え? 私は彼を見送りながら門扉もんぴに触らぬよう上から顔を出す。そうか、恋には鈍感でも友情ならわかったのか。

 私は涙をふかなきゃいけなくなる前に家に戻った。

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