episode 2 病気の明確なきっかけ
不思議な力を使ってでも治したいこの病気に、元々優等生の完璧主義な性格の影響もあるとは思うけど、私がかかったのには明確なきっかけがあった。
「ぐぎっ、ひいっ」
去年の過ごしやすい春の午後、最初は何か丸く重い物がぶつかったと思った。そこに鋭い痛み、えっと振り返ったら今すれ違った犬! 私のデニムの右尻が灰色の中型犬にかみつかれてる!
「こらっ、何やってるの!」
飼い主の女性が犬の頭を何度もたたいて強引に引きはがし、危険な牙はすぐに私のお尻から離れた。私はかみつかれたことはわかってもそれがどういうことか理解できず、はっとしたときには悪さをした犬のうつろな瞳に視線が吸い込まれていた。
「ごめんなさい。ふ、服の弁償と、手当て、病院の……」
か細く震える高い声に顔を上げる私、大切なお尻の痛みや買ったばかりのデニムがだめになった哀しみにああこれから面倒なことが始まるんだという悔しさが勝り、「ええと、いや、大丈夫です」と言ってしまう。この人、飼い犬のしつけはなってないのに美人だなとおかしなことを思った。年齢は二十五歳以下だろう、これも関係ない。
「でも、そういうわけには、いかないから、連絡先をその……」
女性は問題の犬を無理矢理抱えて動けず、またマナーの悪い人と違ってスマートフォンを犬の散歩に携帯してもいないようだ。私はここで今自分が電話番号を告げても忘れられるだけだと思った。私が背中の小さなリュックサックに隠し持つ端末――そこにかみついた犬の飼い主情報を? いくら美人でも書きたくない、私はそもそも潔癖だった。たぶんだけど覚えられない加害者ともう関わりたくない被害者、利害が一致するではないか。逃げようよ、どうせお尻の痛みはもう忘れそうなくらい。私は力を込めて一歩を踏み出し、気がついたら走っていた。
ここまでなら犬にかまれて身体と服に傷を作った話で終わりなのだけど、私はお風呂でお尻の血を洗っていたらやめられなくなった。直接の理由はわからない。一度消えてもお湯に血がにじみ、手を止められなくなったせいかもしれない。やがて私は、汚れが過度に気になる強迫性障碍の一症状に陥っていた。
症状は残念なことに進行し、私を励まし続けてくれた親友の翠との別れがやってくる。高校二年生、十七歳の冬、まず私のお父さんが全日制や定時制の高校では休み続けることになると通信制の高校を見つけてきた。彼女のほうは転校こそしないものの、遠く学校の反対側の街に引っ越すと聞かされる。私の転校先は通信制といってもトイレに行く必要はなくならないけれど、幸か不幸か薬の副作用で回数は減っているし、月に数度のスクーリングなら耐えられるとお父さんが判断した。
すでに私は家の外のトイレが恐怖でしかなくなり、翠や司と一緒の高校に通えない状態だった。あのころははやり病がなかったからいくらでも密接できたはずなのに、私は引っ越し二日前に来てくれた彼女と距離をとって話していた。
「北守パパだって、藍のこと考えてくれてるんだと思うよぉ」
「でも勝手に決める?」
このときも私は両腕を隠していた。
「決めたっていっても、じゃあ今から藍が死ぬ気で抵抗すれば対応してくれるって」
「死ぬ気になったら死んじゃうかも。病気だし」
腕を組む翠に私はうなだれて答え、声が揺れた。彼女は門にぎりぎりまで近づき、「まあまあ藍、悪いことばかり想像してたらいいことないからさーあ、少しでもいいこと考えて」とここで小さくはっとする。
「あ。悪いこと考える病気か」
「そうなんだよね、やっかいなことに」
私は一歩下がって言った。
「じゃあもーう、力が使える十八歳の誕生日まで、何もかも無視するしかない。その力で病気を治せば、ねー」
「それができたら治ってるよ」
私はおっとりした翠が自分のペースで話そうとすることにだんだん気が立ってきた。
「ねえ翠、私は翠の引っ越しのほうをやめてほしいんだけど」
「わかってるよぉ」
私がつっけんどんに返しても彼女は笑みを浮かべる。今から思い起こしてみれば、あれは彼女のがまんの表れだったのかもしれない。彼女が何を言って私の前を離れたか覚えてないけれど、けんか別れではなかったと信じたい。彼女に確認できればいいのに、それは正しくない。
転校して初めてのスクーリングの日、私は頭の良すぎない生ぬるい進学校との違いに〝カルチャーショック〟を受けた。遅刻が嫌で事故に遭うほどの良くも悪くもまじめでおとなしい生徒ばかりだった元の高校に対し、通信制の背景から年齢まで違う様々な生徒たちは刺激が強すぎた。
「北守、だっけ、何で通いの学校やめたの?」
金髪の男子にいきなり声をかけられ、私は本能的に机に置いていたノートごと遠ざかる。それを敵視とでも考えたのか、汚い黒髪が一メートルはある不思議系女子が「何この子、逃げてんやん生意気ーっ」と笑った。
私は〝不思議ちゃん〟からつばが飛んだ気がするそれだけで悲鳴をあげそうになるけれど、ここは勇気を振り絞って「やめてない、学校」と返す。しかし私が口答えというか、訊かれたから答えたのにそれこそ生意気な態度をとったと感じたらしく、彼女は私を無視して自分の席に戻ってしまう。
観察していた〝金髪〟がおおこええーと爆笑し、だからつばが飛ぶってと言いたいのをこらえていると、新たに小柄な男子が現れた。
「おう、手どうした、男とけんかか? そんなわけないか」
両手を隠す私、その日の手は今ほどではないにしろ赤くすり切れ、白いせっけんかすもていねいに洗い流した状態だった。男子といっても四十は過ぎていそうなおじさんは無知から私の手を笑ったけど、最初の二人よりは接しやすい人だとあとでわかる。
先生とも同級生ともときどきしか会わないのに、逆に会うことの重要性が高くなる予感から、私は早くもスクーリングが嫌で嫌でたまらなくなった。
ところが、それを解決したのが問題のはやり病である。春になって感染が広がると、スクーリングの大部分が在宅授業に変更されたのだ。
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