ひとつだけファンタジー
海来 宙
episode 1 苦しみに共感しないで
つらいときに「つらい」と言ったら「私も」「俺も」「わかるわかる」と共感しないでほしい。当たり前のことにされるとよけい死にたくなるんだ。共感してないで私のつらさをすごいことだと認めてよ。ああもう、他人の病気のせいでこっちの関係ない病気まで悪化してるじゃないか。
夜に幻を見た私は今、十分以上もかけて手を洗っており、たとえ洗面所が終わってもタオルでふくのに失敗すれば最初からだし、成功しても台所のきれいな水道で仕上げをしなければならない。ただ手にせっけんと水をつけるだけなのに、くり返せば指はあれて切れ、痛むからと塗る薬も汚く感じるほど。気分や体調によっても症状が変化する、やってられないけどやらなくてはいけない恐ろしい病気。
インターフォンが弱々しくこの家の住人を呼んだ。何だよと水をふいて台所の横に行き、またやり直しだと思いながらディスプレイで確認するとおばかさん、右目がどきりとする。今朝、本当の友達なんかいないSNSに「今から世界中の全犬を殺して死んでやる!」と書いたから慌てて止めにきたのか。
痛む手と恐怖でやっと玄関を開けると、夏の空気の重さにくらっとした私に言う。
「
私は十七歳の
「司、ばかじゃないの。遠くに行けない私がどうやって世界中の全犬を殺すわけ?」
たった今まで声すら出せそうになかった私が思ってもいない言葉でばかにして怒ると、
「それは、いや、だからあの力で……」
彼はいきなり人に聞かれたくない話をするではないか。秘密にふれられてかっとなる私、「あんなの十八歳になった日の一回だけだし、誕生日知ってるくせに」と言い返した。日陰にいる私のほうも汗が額から左の頬をすべり落ちていく。
すると彼はろくろの上のおちょこみたいに鼻の穴を広げ、
「だけどさ、最初の一匹だけで十分問題だよ。それに、思いつめてそのあとに書いてあったこともしちゃったら――」
優等生的な指摘をしてきた。犬に恨みを持つ前は私のほうが優等生だったのに。
「はいはい、お疲れさん。別に、あれ書いたくらいでその通りに殺したり死んだりしないから。ほら、マスクもしないで、こんなことで外出したって知れたらおばさんに叱られるよ。早く帰って」
私は言い終えてから背中の右手を出し、司に「ばいばい」ではなく「しっしっ」をする。自分の気持ちに反しててひどい女だ、親友の
「――藍、藍、本当に大丈夫なのか?」
何をしても家の前に残ってくれる司に、はっとした私はどうしてか
「ほーらほら、外に出てると危ないよぉ、帰りなさーい」
今の自分にこんなことができると思わなかったから私が驚く。彼はさすがに幻滅したか、「わかったよ」と我が家の前を離れていった。
猛暑の下をとぼとぼ歩く司の背中を見送って猛烈な
ふーうと自分の手がない方向に長ったらしいため息が出る。私の病気は
考え飽きたことだけど、もしも病気じゃなかったら私はどうしていただろう。今も引っ越したとはいえ優しい翠に〝おばかさん〟の司がいて、楽しくも恥ずかしい甘めの高校生活を送ってた? 慣れ親しんだ高校に通い続けられたし……いや、彼女がいてくれたとは限らないか。
ああ、普通は「病気」と聞いて考えるのははやりの感染症で、そいつが甘めの高校生活に暗い影をさしていたに違いないけど、私の病気は違った。手を洗いたい病気。強迫性
本当はこのせっけんかすもきちんと落としたいんだけど、ここは今日は妥協できた。司という邪魔が入ったからかもしれない、実は貴重な一歩。ちなみにさっき息を手のないところに向かって吐いたのは、息に混じってつばが飛んだと考えたら地獄だからに他ならず、彼が来たときも両手は背中に隠していた。もちろん専門のクリニックに通院している。
地獄といえば、私は世界中に広まるはやり病のせいでひどい目に遭っていた。強迫性障碍を治す、完治は無理でも「
本当いいかげんにしてほしい、自殺しても知らないんだから。
今朝もネットに「死んでやる」と書いて何もしなかったくせにね。犬なんてあれ以来怖いし汚くて殺せるほど近づけないよ。私はあのときのことを考えてうっかり記憶と異なる巨大犬の牙を思い浮かべ、全身がぞくり震え上がった。
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