猫姫様の婚約者

冬凪てく

猫姫様の婚約者

 私の日常は憂うつの連続だ。ここ最近は特にひどい。


 辺境伯領のとある城内の一角、石造りの大広間の壇上だんじょう

 きらびやかで座り心地の良い椅子いすに座りながら、私は大きなため息をつく。

 

 私をかざり立てるべく意匠いしょうのこらされたドレスの装飾そうしょくに目を落とし、かたぱしから引きちぎりたい衝動しょうどうを抑えてから広間を見下ろした。


 壇上の私から十段以上も下に広がる石畳いしだたみの空間。

 たてりするように中央にひかれた赤いじゅうたんの上で、三人の『男』たちが私に向かってこうべれていた。

 その両脇にはかつて領主であった父の頃からの家臣たちが、いつものように列をなして待機している。


「はぁ」

 

 今日も今日とて、憂うつの元凶げんきょうが目の前で繰り広げられつつある。


 思わずほおづえをつきたくなったが、再び大きく息をくことで、かろうじてこらえた。


 それが合図というわけでもないだろうが、一人目の男の声が広間に響く。


「この度は辺境伯家のご令嬢れいじょう――シャーロッタ様にお目通り叶いましたこと、恐悦きょうえつ至極しごくの限り」


 落ち着いたその声と男の所作しょさは、本来なら人々を魅了みりょうするに違いない。


「必ずやこの機会にうるわしいあなた様の御心おこころをつかんで見せましょう」

 

 人の姿なら、さぞ白馬の王子様のような凛々りりしいたたずまいの美男なのだろう。

 

 ……ただし私の眼に映るのは猫だ。

 新雪のような純白でつややかな毛並みに包まれた白猫が、ただ背筋をピンとばして人の言葉を話しているだけ。


「いいや!」


 白猫のまとう優雅ゆうがな雰囲気をりつぶすかのような声が響く。

 

「俺が必ずあんたを婚約者としてもらい受ける。ジタバタせずにそこで待ってろ」

 

 私に向かって不敬にも指をさしてくる男が人の姿なら、さぞワイルドでヤンキーなあらくれ者の大男なのだろう。

 

 ……ただし私の目に映るのは猫だ。

 白猫の隣で、右目の上部に切り傷の入った茶ぶちの大柄おおがらな猫が、ただ威勢いせいよく招き猫のポーズで人の言葉を話しているだけ。


「初めてお見かけしたときに一目ぼれしました」


 そしてもう一人。

 いや、もう一匹か。


「姫様のためなら、僕は何だってします。まず手始めに、姫様のをけがすそこの奴らを排除しても良いですか?」

 

 人の姿なら、さぞ頼りなさげに見える根暗ねくらな少年なのだろう。


 しかし私の眼では、二匹と比べてひと際体格の小柄なサバ猫が、ただし目がちに人の言葉を話しているだけ、だ。


 そう。


 私はいま三人の男、ならぬ三匹の猫から婚約の申し出をされていた。

 この状況、頭を抱えずにいられるものか。


「私こそが、あなた様の婚約者にふさわしい」

 白猫が一心に私を見据みすえている。


「ちょっとうざいからこいつなぐっても良いか?」

 茶猫が今にも白猫につかみかかろうとしている。


「姫様、ただ僕だけに命じてください。排除の許可を」

 サバ猫が静かに爪をいでいる。


 今年で十六になった私のもとには、最近こうして引っ切り無しに婚約者候補の連中がやってくる。

 それだけでうざったいというのに、しかも相手は猫だ。


 憂うつになる私の気持ちもわかるだろう?


 仮に今回が初めての機会だったなら、まだ少しは興味本位で三匹の猫の様子をみる気力もあったかもしれない。

 

 しかし、この一年ですでに数えきれないほど、私はこれを経験した。


 正直言って、ただただ、わずらわしい。

 もうこりごり、もうたくさんだ。

 

「あー、もう! 猫のくせににゃあにゃあと鳴かず、ガタガタとうるさいわね。全員却下きゃっか! 帰ってくれるかしら」

 

 二度と城内に上げないで、と私のすぐそばに待機していた老執事に命じて、三匹の猫に即座そくざのお引き取りを願う。


「はっ、シャーロッタ様」


 この老執事こそが、今や私が唯一信頼できる存在だ。


 ……反対に家臣たちの落胆らくたんっぷりたるや。


「やっぱり今回もダメだったか」


 これまで私は常々、婚約など全く興味もないと周囲に明言してきた。


 それにもかかわらず、家臣たちはどこの馬の骨ともわからぬ『猫』たちを呼びつけて、私に目通めどおりの機会を求めてくるのだ。


「辺境伯様が亡くなって早一年。お家維持のためにも姫様には早く婚約者を見つけていただきたいのだが……」

「なぜ姫様は同年代の男たちを猫のように扱っておられるのか」

「知るものか。せっかくお美しいというのに、性格があれではもったいない」

 

 彼らも彼らなりに私のことを案じてくれていたのだろう。


「……猫姫様は健在だな」


 ありがた迷惑めいわくの家臣たちから白い目が向けられるが、しかし私は知ったこっちゃない。


 じつは、私には男が猫にしか見えない呪いにかかっている。 

 しかもどうやら、すべての男ではなく、年齢的に私の恋愛対象になる男はみな、猫の姿に映っているらしかった。


 実際、今も広間に並ぶ家臣たちはみな、中年~老体の人型の男として私の眼には映っている。

 また、こうして令嬢と呼ばれる年齢まで年を重ねるうちに、かつては猫にしか見えなかった幼子おさなごたちも、最近ではようやくあいくるしい男の子として認識できるようになってきた。

 

 きっとこの呪いは生まれた頃から私にかけられたものだろう。


 一方で誰が呪いをかけたのか、呪いの解き方はいまだ不明のまま。

 だから、今もこうして呪いを解除できずに私は苦しんでいた。

 

 まったく、厄介やっかいな呪いだ。


 本物の猫と同年代の男を見た目で区別することはできず、ただ鳴き声が猫か人か、だけで判断するしかない。

 

 しかも、私はこの呪いにかかっているという事実は家臣をはじめとする周囲には隠していた。

 だから私が呪われた身であることを知っているのは、世界で二人だけだ。


 一人は父。

 

 母は私が生まれてすぐに亡くなってしまったらしい。唯一の娘となった私を、父は多忙な公務の隙間すきまって、生涯しょうがいをかけて、大事に大事に育ててくれた。


 その父も昨年急に病で亡くなってしまった。


 もう一人は今も一番身近に居てくれている老執事だ。

 多忙な父と死別した母に代わり、私を幼い頃から支えてくれて、それこそ祖父のように接してくれた。


 私は信頼と感謝を込めて彼を「じい」と呼んでいる。

 

 とはいえ爺は本物の祖父ではないので、この辺境伯家を治めるわけにもいかない。

 父も母も居なくなった今、私がこの家の、辺境伯家唯一の大黒柱となってしまったわけだ。

 

 だから家臣たちがこの家を守るために、私の婚約者を血眼ちまなこになって探す今の状況は私には理解できる。


 私自身も辺境伯家を守る責任を感じている。


 だからこそ、呪いによってくもってしまったで、大事な婚約者を選ぶわけにはいかなかった。


 かといって呪いのことをおおやけにすれば、父が亡くなり、風前の灯火ともしびとなったこの家の家臣たちがさらに動揺どうようしてしまうだろう。

 民たちを不安にさせるわけにもいかない。


 そこで、私は方便ほうべんとして「公務が忙しいので婚約に興味はない」と家臣に宣言した。

 

 ところが人の心とはいつも裏腹だ。


 家臣たちは、私に男を見る経験が少ないからだと、しきりに婚約者候補を寄こすようになった。


 私の考えが裏目に出てしまったのである。


 猫にしか見えない婚約者候補の相手たちに、これまで私はなんとか呪いのことを隠して取りつくろう努力をし続けてきた。

 それでも、やがて小さなボロは少しずつ積み重なっていく。


 そうして生まれた言葉が、『猫姫様』という不名誉なあだ名だ。


 というわけで私はいま、板挟いたばさみのジレンマにい、壮絶にんでいた。

 

 人は本来ならこういうとき猫でいやされるはずなのに、私はかえって猫に心をさいまれている。


 まったく皮肉ひにくなものだ。

 いずれ呪いをかけた犯人を見つけ出したら、そいつを猫百匹が放たれた空間に閉じ込める刑にしょしてやりたい。


 三日三晩、猫の鳴き声を聞き続けて、苦しむと良い。


 しかし、残念ながら犯人は行方ゆくえ知れず。

 状況も一向に改善せず、むしろ悪化方向。


 老執事以外にどくづく相手もいない私は、今夜もふて寝することを心に決めた。


 ◇

 

「だぁー!」


 すっかり夜もけた頃。


 私は自室に戻るなり着の身着のままベッドにダイブした。

 せめてものストレス発散のしにと、足をパタパタさせる。


「今日は本当に疲れたぁ」

 

 父親が亡くなってもうすぐ一年。

 

 ようやく引き継いだ仕事にも慣れてきたタイミングだというのに、最近の仕事量がこれまでの十倍以上に増えた気がする。

 

 それに加えて、大広間での茶番は……もう思い出したくもない。


 心労もここにきわまれり、だった。

 

「小さい頃の方がよっぽど自由で、なにも考えなくて良かったのにね」


 ポツリとこぼした弱音とともに、不意にある記憶がよみがえってきた。



 それは今から十年以上も前、城を囲む庭で、一人で遊んでいた時のこと。


 一面の花壇かだんに植えられた、色とりどりの花をでていたら、遠くの方でにゃあにゃあと何やらさわがしい様子のねこき声が聞こえてきた。


 私は目の前の花々よりも、その声の意味するものが気になって仕方なかった。

 だから鳴き声を頼りに花壇かだんを離れて、すぐに猫を探しに出かけた。

 

 声の元へ一直線に向かうと、城壁と木々の合間の隠れた場所にたどり着いた。

 そこはの光が届きにくく、かつ人目のつかないところだ。


 恐る恐る、草むらの隙間すきまからのぞいてみる。


 どうやら猫同士が争っているようだ。


 猫同士、と言っても一対一ではない。


 黒い子猫をターゲットに三、四匹の猫が周囲を取り囲みながら威嚇いかくしていた。


 対する子猫はちぢこまってふるえている。

 

 どうやら黒い子猫が周りの猫たちにいじめられているらしい。


 十年以上前といえば私も小柄こがらな子どもなわけで、猫相手とはいえ手出しをしたら、こちらも無傷というわけにはいかなっただろう。

 

 ところが幼い頃から正義感の強かった私は、震える手を握りめて覚悟を決めた。


 そして、あろうことか猫たちの前に飛び出したのだ。


 驚く猫たちを尻目しりめに黒い子猫を抱え込む。


 そのまま今度はわき目も振らず、もと来た道を一目散に逃げ帰った。


 背後から猫たちの騒々そうぞうしい声が聞こえていた気もするが、ガムシャラだった私はそれどころではなかった。


 猫たちに追いかけられて、捕まったらどんな目に合うか分からない。


 肺がはち切れそうになりながら城内に逃げ込んだあとも、私の足は止まらなかった。

 今度は猫ではなく、おどろくメイドや家臣たちの声が聞こえていた気もする。

 

 気にするな。


 自室に駆け込んで扉を閉じてしまえば。


 私を止める者も、とがめる者もいない。


 バタンと扉の音が鳴り、 そのうち私の乱れた呼吸だけが部屋に響き渡った。

 

「はぁ。ここなら、安全、だから」

 

 えの息をそっちのけにして、両手に包まれた子猫の姿を、私は初めてはっきりと見る。

 

 ボロボロになった黒い身体が小刻こきざみにふるえていた。


 にもかかわらず、私を見上げてくる青の双眸そうぼうがどこまでもんでいたのを今でも覚えている。


「ニャー」


「そうね。まずは身体をいてやりましょう」


 私は子猫をすぐに綺麗きれいにしてやった。

 と言っても当時の幼い私は身だしなみの管理をすべてメイドたちに任せていたから、慣れない作業だった。

 とても完璧かんぺきとは言えないし、きっと子猫にとっても不快だったにちがいない。


 それでも汚れをいくらか落としてやるだけで、美しい毛並みの猫であるということは、幼い私にもわかった。


「よし、まぁ及第きょうだい点かな」


 かろうじて満足のいくレベルになったときには、初めて見かけたときとは打って変わって、ずいぶん凛々りりしい黒猫になっていた。


「ニャー」


 子猫はお礼と言わんばかりにけがれた私の手をぺろぺろとめ始めた。

 ざらざらとした質感しつかんがこそばゆかったが、ふしぎと不快ふかいではなかった。

 

「かわいい黒猫ね。いっそこのままっちゃダメかしら?」


 当時はまだ異性いせいねこに見える呪いについてよく分かっていなかったから、猫への警戒感も今ほどではなかった。


 それにこの子は鳴き声からして正真正銘の猫だ。


 子猫は「ニャー」と返事をしたのを聞いて、それを了承りょうしょうと私は読み取った。


「まずは名前を考えなくてはね」


 軽く腕組みをして考え始めたものの、頭の中に次から次へと候補が浮かび上がって、すぐには決められそうにもない。


 ああでもない、こうでもないと、うなっているとまぶたが重くなってきた。

 幼い身体で子猫を抱えて全力疾走したのだから当然だ。


 やがて走り疲れた私に睡魔すいまおそいかかり……。


 ◇

 

 鳥のさえずりが聞こえる。

 

 昨夜は自室に戻るなり着替えもせずに、ベッドに飛び込んだことまでは覚えている。


 そのまま寝落ちしてしまったらしい。

 

 したまくらから顔を上げると、カーテンのすき間からわずかにの光が差し込んでいた。

 

 寝る準備もせずに、気絶きぜつするように寝落ちした代償だいしょうだろうか、頭がだる重い。


「……結局あのときはどんな名前をつけようとしたのだったかしらね」


 夢で見たあの頃を思い返すように、私以外には誰もいない部屋を見やる。


 当時も寝落ちしてしまった私が次に目を覚ました時、すぐ近くにいたはずの黒い子猫は居なくなっていた。


 はじめのうちは部屋の中でこっそり隠れているのだろうと思っていた。


 しだいに部屋どころか、城内をいくら探しても居ないことに気づいた私は大泣きしたものだ。


 私の泣き声を聞いてすっ飛んできた老執事に子猫の話をしても、当然彼が知るよしもなかった。


 黒い子猫はそれっきり二度と見かけることは無かった。


 そして、猫とのれ合いも、良い思い出も、それっきり。


 今や私にとって、猫は呪いと呼ぶべき存在なのだから。


 頭の上にのっかる得体えたいのしれない重みを振りはらうように首を振る。

 今日も今日とて公務を果たさねばならない。

 それこそが私に課せられた使命なのだから。


 気合を入れなおしたタイミングで、コンコンコン、と部屋の扉がノックされる音が響いた。


「シャーロッタ様、お目覚めになりましたか?」


 老執事の声だった。


「ええ、今起きたとこ」


「さようでございましたか。では今朝のお支度したくを少々お急ぎいただけますか?」


「あれ? 今日は急ぎの公務があったかしら?」


 それともいま、盛大せいだい寝坊ねぼうをしてしまっているのだろうか?

 

 だとしたらマズイと思っていたが、扉の向こうは一瞬静かになる。


「じつは……」


 じいは高齢とはいえ、背筋もしゃんとした立派な執事だ。

 それなのに今朝の様子はどうも珍しい。


「いったいどうしたというの?」

 

「それが……その」


「爺にしては歯切れが悪いわね」


 そんなことを言うべきではなかったかもしれない。しかし、この言葉は爺に、ある決心をさせるものだったようだ。


「じつは……姫様にお目通りをお願いしたい男が一人おりまして」


 あらがいかけていた重力に負けて、私はベッドに倒れこむ。


 まーた、この話か。朝からまったく。


「毎度のことだけど、断ることは無理なの?」


「おそれながら」


「たとえ私が風邪かぜをひいていても?」


 また老執事の反応がワンテンポ遅れた。


「……おそれながら、今回はそれがしからの心よりのお願いです」


 その瞬間、気づかぬうちにバタバタさせていた足も動きを止めてしまった。

 私は大きく息をく。


「ついに、じいまでも言い出すのね」


 裏切りとまでは呼べないが、残念という言葉ではとても片づけられそうにもなかった。


 本当に、本当に、私にとってはショックだった。

 じいなら私の気持ちを理解してくれていると思っていた。

 

 それとも、唯一の理解者だと思っていた人にまで言われたら、その時は私が折れるべきなのだろうか?



 見慣れた大広間、見慣れた赤じゅうたん。見慣れた家臣たち。


 唯一違うことと言えば、いつもなら壇上だんじょうの私のすぐそばにいるじいが、今は広間の方から私に向かって頭を下げている点だ。

 

「姫様。こたびはお時間をいただきありがとうございます」


堅苦かたくるしいことは良いから、さっさと用事をませましょう。それで? いやがっている私にじいがわざわざ合わせたい男とはいったいどんな男なの?」


「はっ、ただいま」

 

 じいは軽く頭を上げて私に目配めくばせをしてから、大広間のとびらのわきに立つ守衛しゅえいに合図を送る。

 

 いったいどんなけ猫が出てくるのやら。


 猫を追い払った後で、家臣たちにのろいのことを打ちけてしまおうか。


 これまでは偉大な父に代わり、領主としてプライドを保てていた。

 でも、もはやそれがどうでもよくなりつつある。


 開くとびらをぼんやりとながめていると、扉の向こうの薄暗うすぐるい空間から一人の男が現れた。


 全身黒ずくめの男は颯爽さっそうとした様子でじゅうたんの上を歩き、やがてじいの立つ隣で、私に向かってうやうやしくひざまずく。


 その姿を見るや、家臣たちは騒然そうぜんとした様子で、口々に何やらささやき始めた。


 珍しい。

 いつもなら家臣たちは静かにしているというのに。


 私が一番信頼していたとはいえ、やはり執事にすぎない彼の言動が家臣たちには面白くないのだろうか?


 そしていつもなら、私が何か言い出すより前に、婚約者候補のやからどもが口々に鳴きわめいていたことだろう。

 

 ところが眼前がんぜんの男は依然いぜんとして静かにこうべれている。

 ……こっちも珍しい。


 「おもてを上げよ」


 私がめいじると初めて、男はゆっくりと私の方をあおいだ。


 彼の顔があらわになった瞬間、私の息は止まった。


 あでやかな黒髪に凛々りりしい表情は言わずもがな。


 ――空のようにき通ったあおひとみ


「そなた、まさか……」


『お久しゅうございます。姫様』


 男はつつましく微笑ほほえんだ。


「まさか、あの時の……」


 ずかしいやられくさいやら。


 男の視線しせんを受け止めきれなくなった私は、しかたなくじいの方を見やる。

 爺は私に何かをびるように、深々ふかぶかと頭を下げていた。


 あー、もう!!


 なにがなにやら、いったいどうしたものか!


 さっきまで考えていたはずのことが全て頭から吹き飛び、もはや何も考えられなくなってしまっている。


 爺! さてははかったな!!


 抗議こうぎも込めたせきばらいをわざとらしくして、私はあらためて男にげる。


大儀たいぎだ、そこの黒い君」


 男は再び頭を下げる。


褒美ほうびだ、私の婚約者こんやくしゃになれ」


 私がそう宣言した瞬間しゅんかん、いても立っても居られなくなったのだろう。


 広間の両脇で並んでいた家臣たちが大挙して広間の最前列に集まりだした。

 そして、壇上だんじょうの私に向かって、飛びかからん勢いで口々にさけんでいる。


「姫様、正気ですか⁉」

「姫様、もう一度考え直してください‼」

「体調が悪いのですか⁉」

「執事にだまされたのですか⁉」


 その様子がなぜだか紙芝居かみしばいのように、ひどく他人事ひとごとに、滑稽こっけいに見えたのはなぜだろう?


「すまぬ。もう決めたことだわ」


 私は少し口元をほころばせながら席を立ち、広間を立ち去った。



 そのまま自室に戻ってしばらく経ったが、胸の焦燥しょうそうはとどまることを知らない。


 やがて扉をノックする音が響いた。


「姫様。かの者を連れてまいりました」


 じいの声だ。


「部屋に通してちょうだい」


「はっ」


 開いた扉から先ほどの黒い男が滑り込むと、再び扉は閉じられた。


 男は部屋の中央で椅子に腰かける私を見る。

 そして音もなく私のもとに近寄ってきた。


「久しぶりね。十年ぶりくらいかしら?」


 男はあお双眸そうぼうをこちらに向けたままゆっくりとうなづく。


「ほんと、あの時はどこに行ったのかと、ずっと探したのだから」


 今度は申し訳なさそうに目をせた。


「まぁ、こうしてまた再会できたから良いのだけれど」


 ひざかれた私の手に男の手が重なる。


「……とはいえお仕置きが必要よね」


 男の手が少しこわばったのが伝わってきた。

 まったく昔と変わらず、いまも素直すなおな性格なのだろう。


 余計におかしくなって、私は笑いをかみ殺す。


「十年以上ずっと私は我慢してきたのだから、今日は君が我慢してくれないとね」


 彼に、私はどうしてもしたいことがあったのだ。

 それは十年以上経った今もずっと。


 彼と出会って以来、心の奥底でひた隠しに願い続けていたことだ。


「さて」


 私は悪戯いたずらっぽく黒い君にウインクしてやる。

 普段の私なら絶対にしない。まして領主になった今なら、なおさら。


 ただ、これが今の私にできる、私なりの精いっぱいのサービスだ。


 あの時とはまた違った恐怖におびえる彼にむかって。


 私はささやいた。

 

「君のことを……モフモフさせてくれるかしら?」

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猫姫様の婚約者 冬凪てく @Fuyu_Teku

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