第5話 父の愛したカサブランカ
父さんは、仏壇の引き出しから家の鍵を取り出し、夏子ちゃんに手渡した。
「せっかくだから、寄っていきなさい。仏壇も、そのままになってるから」
そう言って、かつての生家を見ていくことを勧めていた。
その後もしばらく話し、西の空がほんの少し翳りだしたのを見計らって、僕らは美春さんも伴い彼女の家を目指す。道路ではなく、屋敷林のあった場所をまっすぐ突っ切る形で歩けば三十秒ほどで着いてしまう距離だ。
夏子ちゃんの家は、空き家となってからも掃除や草刈り、庭周りの手入れは怠っていない。いつ二人が帰ってきてもいいように、その思いがあったから、徒労や面倒だとは全く思わなかった。もし、使い道が無いなら僕が譲り受けて住もうかと思っていたくらいだったから。
敷地に入ると、記憶の奥に触れる匂いがした。その記憶を押し留めながら、僕は玄関の戸に鍵を差し込んでひねる。夏子ちゃんと美春さんは、僕と父さんの後ろに控えていた。かつては自分たちの家であっても、現在の所有者は僕の父、そう思ってのことだろう。玄関の戸を開けて中に入ると、彼女たちも後ろについて家に上がった。
人の住まなくなった家というのは独特だ。埃っぽいというのとは違う、本来ある筈の営みの不在感。日々の変化さえ無く、時が止まっていたような空気が漂っている。父は、玄関脇にあるブレーカーを上げて電気を復旧させ、廊下の電灯を灯した。ぼうっ、と明かりが灯され、締め切ったままの薄暗い部屋が不自然な明るさによって浮かび上がる。
長い間の管理で勝手知ったる家の中を、僕はある意図を持って最初に仏間に向かった。まずは、ここに向かうべきだろう。僕はそう思って夏子ちゃんを促し仏壇の前に歩み出た。
「さ、お母さんも……」
僕の父もそう言って、後ろで控えていた美春さんを仏壇の前に促した。
夏子ちゃんは、僕に少しだけ目配せしてから頷いて、閉じたままだった仏壇の観音扉を開けた。
……位牌は、引っ越しの時に持ち出されたままだ。ここにあるのは、使い古された燭台と、彼女の父親の写真だけ。それでも、ここに「会いに来た」ということが感じられる佇まいだった。
彼女は伏せられていた敏弥さんの写真を起こして、仏壇に立て直し……
「……ただいま、お父さん」
そう言って彼女は仏壇の前に膝を折って座り、手を合わせていた。そしてまた、
「ごめんね……」
そう、微かに呟いていた。
美春さんも、隣に座り同じように手を合わせた。そうしてしばらく写真を見つめていたが、不意に顔を伏せ背中を震わせ始めた。
「あなた……ごめんなさい────」
ほんとうに、聴こえないほどのつぶやきだったが、僕にはそう聴こえた。
その言葉を聞いて僕は、お母さんにはまだ早かったのかも知れない、という後悔も浮かんだ。思い出の場所であると同時に、ここはお母さんが────そんな場所であることもまた事実なのだ。
どう声をかければいいのか……。こんな時、何もできない未熟な自分がもどかしかった。
そんな僕の懊悩を他所に、父は仏間と廊下を隔てる雪見障子戸を開けるとそのまま廊下のカーテンも開け、さらに縁側の雨戸も開け始めた。こんな時に、がたがたと音を立てながら何かしている父を少し無粋にも思ったのだが、やがて開け放たれた縁側から薄暗かった和室へ光が差し込んだ。そして、先ほど外で感じたあの匂いも招き入れられてきた。
この場所は、表の花畑の香りが一番感じられる場所でもある。その事を、今思い出した。
……あの事件の時、美春さんに暴行を働いた男は家を飛び出し、そのまま花畑を突っ切って逃走したらしい。何人もの警官が、地面から足跡を採取していたのが思い出される。その時、犯人の男の服に付着していた
純白な花弁が美しいカサブランカだが、その花粉は赤錆色をしており一度服に付いてしまうと落とすのはほぼ不可能なのだ。
花は百合に限らず、一般に受粉すると種を作るために早く枯れてしまう要因にもなる。また、放置した花粉は花びらの白さを汚す原因にもなるので、開花の際はいち早く雄蕊を取り除くのが百合栽培の習いなのだ。
夏子ちゃんのお父さん……
敏弥さんが亡くなり、手入れする人を失ってしまったカサブランカだったが、それでも尚、お父さんの遺志をその身に宿し犯人を捕らえてくれたのではないかと、当時の僕は思ったものだった。
「……カサブランカ?」
彼女が、不思議そうに言いながら僕の横に来る。
開け放った縁側の前にある花畑には、今も白い大きな花を咲かせた百合が、幾つも生えていた。この濃密な甘い香りは、カサブランカ特有の芳香なのだ。
彼女の家族はみんな、花が好きだった。
お盆になると、菊、トルコキキョウやカスミソウ、
中でもカサブランカは、彼女の父親が特に好きだった花だ。育てるのが難しく、丁寧に手入れをしなければ綺麗な花を咲かせてはくれない。毎年お盆になると一斉に咲き誇るこの花の匂いは、家族の想い出の匂いでもあったのだ。
「まだ、咲いてたんだね……」
そう言うと彼女はすぐに、震えている美春さんを促して立たせ、縁側につれてきた。
「ぁあ………」
口元を抑えて、美春さんはその純白の花を見つめていた。きっと、嘗ての記憶を想起しているのだろう。
「お父さんの、大切にしてた花だったから……。枯らさないようにって」
僕は夏子ちゃんにそう伝える。
「今年も、なんとか花をつけてくれたよ。でも、やっぱり……敏弥くんみたいに、上手には行かないもんだなぁ」
父は、努めて明るくそう言って、花に目をやった。
父の言うとおり、敏弥さんのように上手ではなかったかもしれないが、これだけは失くさないようにと、僕たち家族は毎年手入れを続けていた。この記憶の証だけは残しておこうと、ずっと思い続けていたのだ。
「ありがとうございます……」
そう言って、美春さんは小さく頭を下げた。そして、また一歩前に踏み出し花を近くで見ようとしていた。
僕は、縁側から外に身体を乗り出し、縁の下に押し込んでいたサンダルを引っ張り出す。掃除の時に使っていた、お勝手使い用のサンダルだった。
「ありがとう、玲弥くん」
夏子ちゃんは意図を察して、僕にそう言ったあと美春さんを促してサンダルを履かせ、そのまま外に踏み出し花畑へと誘っていた。
「うん……また見てもらえて、うれしいよ」
僕はもう一足サンダルを取り出し、夏子ちゃんにも履かせて花畑へ行かせた。
またみんなで、ここに暮らす────。
それが叶うのか、まだわからない。それでもこの花はずっと大切にしていこうと思う。たとえ彼女たちの気持ちが、どう変わろうとも。
母娘は、白百合の咲く花畑で寄り添いながら、まるで家族に再会するようにその花びらを手のひらに触れさせていた。
「……ただいま、あなた───」
「ただいま、おとうさん」
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