第6話 夜涼
彼女の家の様子を確認したあと、僕たちは再び僕の家に戻ってきた。
……その後、そのまま二人を夕食の席に誘うことになった。僕自身も、もっと彼女たちと話していたいという思いもあったし、なにより出掛けに、「今夜は泊まっていきなさいな」と僕の母が盛んに二人に勧めていたためでもある。
一時は、辛い記憶を呼び起こしてしまうのではないかと心配したが、花を見た二人は家族と再会したように元気になっていた。連れて行って、本当に良かったと思う。
その明るい雰囲気のまま夕飯をみんなで済ませ、今は台所で大人たちは談笑していた。夕食が終わりかける頃には、父に向かって母が「お布団だしておいて」と促し、「もう美春さんも飲んじゃいなさいよ」などとお酒を勧めたり、次々と泊めるための外堀を埋めていた。
普段ならそんな母を諌めるのが父なのだが、今日ばかりは一緒になってそれを後押ししていた。
大きな声で、笑いながら話す母の声が一番良く聞こえたが、それに美春さんの声も混じっていることに、心底安堵もしていた。そしてそれは、夏子ちゃんも同じだったのだろう。時々振り返って、賑やかな声のする方に目を向けては、くすりと笑ったりしていた。
僕と夏子ちゃんはというと、それとは別に二人で縁側に座って温い夜風を浴びながら談笑していた。聞けば、美春さんがこんなに笑うのを見るのは久しぶりだという。それが聞けただけでも、本当に良かったと思えた。
蚊取り線香の香りが漂う縁側。
虫の声に混じって蛙の鳴き声も時折聞こえる……。
掃き出し戸を開け放った縁側から外に素足を放りだして、僕らは夜の帳の降りた景色を並んで見ていた。
二人で飲んでね、と言って先ほど母が持ってきたお盆には冷えた瓶ビール二本とグラスが二つ、そして栓抜きが乗っていた。おつまみとしてなのだろう、子供の頃から好きだったおやつカルパスと柿の種まで乗っていたのは御愛嬌か。
これも……母が気を利かせてくれた、ということだろう。
「玲弥くん、普段は何飲んでるの?」
普段の僕は、好んでお酒を飲むということがあまりない。
たまに、炭酸のアルコール飲料が飲みたいことがあって買うこともあるが、大抵は家にある貰い物のビールを飲むことが多い。それが無くなれば別に飲まなくてもいい、という程度のものだ。
「まあ、ビールが多いけど……普段はあまり呑まないかなぁ。どっちかっていうと甘いお酒のほうが好きかな、梅酒とか」
「あ、梅酒ね~。子供の頃におばあちゃんに飲ませてもらったことあったよね」
その夏子ちゃんの言葉で、ばあちゃんが生前作っていた梅酒の味を思い出す。
そういえば、お互いお酒の飲める年齢になってから、こんな風に話す機会など無かった。最後に会ったのは、僕がまだ二十歳前だったから。それに、彼女がお酒を飲んでいるところは最後まで見たことがなかった気がする。
「……せっかくだし、飲む? あ、お酒大丈夫だっけ?」
「うん、玲弥くんと飲むの初めてだね」
先述の梅酒の件はあるけど、あれをわざわざ飲酒とは言わないのだろう。
昔のままの関係であるならもっと気楽に飲酒を嗜むこともあったのだろうが、お互い色々あって……ふたりとも知らない内に大人という嫌なレッテルを貼られる年齢を超えてしまったのだ。
そうでなくても……あんな事があってから外に姿を見せることさえ遠慮していた立場だ。せめて、こんなささやかな成人の恩恵くらいは享受してもバチは当たらないだろう。
僕は栓抜きを持ち、瓶に手を掛ける。ぷしゅっ、という小気味の良い音がして蓋が落ちた。一人で飲む時は専ら缶ビールばかりだったので、少し新鮮な気分だ。
「じゃあ……はい」
夏子ちゃんにグラスを持たせ、僕はそれにゆっくりとビールを注いでいく。
「わ、わっ……」
こんこんと湧き上がる泡を見て、少しはしゃいだような声を出す彼女。
注ぎ終わると、今度は彼女が瓶を持って僕を促しビールを注いでくれた。
薄っすらと水滴の浮かんだグラスをお互い手に持ち、視線を交わして軽くグラスを合わせる。
ようやく、お互いの緊張を解くことを許し合えた、そんな柔らかな空気に包まれた事を肌で感じた。思えばこんな風に、一緒にお酒を飲む場面など想像するより先に、僕たちは離れてしまったから────。
……もう、いいんだよね?
僕は、そう自分に問いかけていた。
…………嫌だった事なんか忘れて、今は楽しんでもいいんだよね?
そして、思い出の中の姿のままの、夏子ちゃんにも。
少しの蛮勇と踏み出せたことの歓びと、長く続いていたどこか重苦しい気持ちの雪解けを感じながら────
「おかえりなさい、夏子ちゃん」
「うん…………ただいま、玲弥くん」
お互い声を合わせ、グラスに口をつけ、軽く喉に流し込む。
覚えのある、新鮮な苦みが心地よく身体を吹き抜けていく。
日中の暑さと流した汗の量に比例するのだろうか、今日のビールは炭酸飲料水のように爽やかに身体に染み込んでいった。体調がすぐれなかったり、その日によってはただ苦いだけでちっとも旨味を感じられないこともある。
幸い今日は「美味しく飲める日」だったようだ。
ちらりと横に目を向けると彼女の白い喉が、くっ、くっと嚥下していく様子が見えた。子供の頃に見たそれとは違い、彼女のそれは妙に艶めかしく……それを盗み見ていることにほんの少しの罪悪感も感じてしまった。
「あ、おいし~……」
そして彼女は意外そうな声を上げた。多分、僕と同じでビールを美味しく飲めないこともあるのだろう。
「夏子ちゃんは普段、ビールは飲まないの?」
「うん。普段は甘いお酒ばかりかな。缶チューハイみたいな……。でも、殆ど飲まないよ。ビールは会社の飲み会で一杯だけ飲む感じだったかな────」
そうだ、彼女は会社でその男性と出会って結婚したんだった……。
そこには、僕の知らない彼女も存在するのだろう。
彼女が結婚してから、無意識か意識的か……努めて起こさないようにしていた、詮索する気持ちが疼きだしてしまう。
結婚……そう、彼女は結婚していたんだ。
ビールで霞んだ思考も手伝い、いけないと思いつつも僕は、ワンピースに包まれた柔らかな曲線を纏う、彼女の身体を目でなぞってしまう。
あらゆる合意があって一緒に暮らしていたはずだ。当然、そういうことも普通にあったのだろう。求められれば応じていたはずだ……あるいは、彼女から求めたこともあったのだろうか、頻度はどれくらいだったのか────
僕は、はっと我に返る。
良くない、醜い沼のような思考に足を絡め取られていたことに気づいて……それでも、彼女の前で首を振って思考を振り払うわけにも行かず────僕は、慌てて持っていたグラスをぐいっと煽る。
すると、彼女は待ち構えていたように瓶を手に取り、また僕に向けてくる。
「あ……ありがと」
僕は、誤魔化すために純朴なふりをしてグラスを差し出して酌を受けた。
注がれていく琥珀色の液体の水面を見つめながら、それでも僕の中に湧いた粘度の高い思考は……止んではくれなかった。
僕と彼女は、
あの頃とは、もう違うんだ……。
そのことが少し悲しく、
今も変わらず、
子どもの頃のように、話せている────
そのことが、とても嬉しく、
僕を前にして
夏子ちゃんは、何を思っているのか
それが、今は分からなくて……
僕はまたグラスに口をつけた。
先程よりも、苦みを増した液体が喉を通って胃に流れ落ちていった。
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