第15話 足跡
────夏はまだ終わらない
その日、昼前には花屋の露店も売り切って仕舞いとなり、お盆の行事は残すところ最後の送り火だけとなった。
お盆の最終日の今日、家族たちは共に簡単なもので昼食を済ませ、父母は軽い昼寝に入っていた。僕と夏子ちゃん母娘は、夏子ちゃんの家の縁側で昼涼みをしながら、夕暮れの送り火を待つばかり……だったはずの昼下がり。
だが、僕たちの今年の夏は、すんなりとは終わらせてもらえないようだ。
どこで、この場所を聞きつけたのかは知らなかったが、
田端康平は三崎家の前に……僕と夏子ちゃんの前に、再び現れた────
彼女の生家の庭先で、田端と夏子ちゃんは対峙している。
夏子ちゃんの、夫であった人。
もちろん僕にとっては穏やかならざる人間である。直接恨みは無いからといって、手放しで容認できる訳もない。
しかし同時に、僕が何か言える相手でもないのだ。
一度、灯台前で顔を合わせているとは云え、この男にとっての僕は全くの部外者であろう。むしろ、不穏分子にさえ見えているのかもしれない。
だからといって、僕の方から無関係を認めて引き下がるわけにはいかないだろう。これからの事もある、きっちりと一線を引いておかねば、事態が今後も尾を引くことになるかもしれないからだ。
だが関係者とは云え、美春さんだけは別だ。
事情を鑑みても、美春さんを今この男に会わせるのはどう考えても適切ではない。
────心労を与えないためにも、話が終わるまで離れていてもらった方がいいだろう。そう思い、僕はすぐに実家に知らせて、母に来てもらい美春さんに付き添わせ、田端に見つからないように縁側から外に連れ出し、屋敷林跡を通って僕の家の方へと避難させた。
美春さんの避難が済んで少しばかり安堵し、いよいよと、僕が男の前に進み出ようとする。しかし夏子ちゃんは、そんな僕を押し留め、何故か「私一人で、話させて」と言って聞かなかった。
正直な所、心配でしかなかったが、この場は彼女の意思に任せ僕は少し離れて見守ることにした。きっと、これは彼女自身がけりを付けなければならない事なのだろう。
先日灯台で見かけた時の言動と雰囲気、それら少ない情報だけでも、この男が見て分かるような悪党や乱暴者でないことだけは確かだ。そして、形なりとも夏子ちゃんを大事にしようと思っていたことも。
有り体に云って、悪い男ではない。むしろ穏やかな人柄ですらあるのだろう。でも、彼の家族観はどうであったのか、それについては疑問があった。美春さんの心労、そして離婚へと至る道筋。
夏子ちゃんが、この男の家族から逃れてきたのは事実──。
人の価値観とは、単純なようでいて複雑だ。
直接その人を見ているようで、実は別な誰かを硝子のように透かして見ていることもある。田端という男は当時の夏子ちゃんにとっても、最初は良かったのだろう。少なくとも、美春さんまで含めての夏子ちゃんという人間を見ていてくれたのだと思う。しかし、そこに田端の両親が加わり、彼らという家族を改めて写し見た時、そこに顕在化されたのは互いに求めていた家族像ではなかったのだろう。
当人同士、夫婦間としてだけなら或いは平穏であったのかもしれない。
だが、夏子ちゃんにとって美春さんは切っても切れない絆であり、生きる目的そのものでもあったのだ。亡き父の姿を語ってくれる家族は、もうお母さんしかいない。まだそれを昇華しきれていない彼女にとって、旧来の封建的な家族像を押し付ける田端の家族の考え方は、あまりにそぐわないものだったのだろう。
……田端と話し始めた夏子ちゃんの口調と雰囲気は、僕にとってはほとんど馴染みのない、見たことのないものだった。固く、眉間に微かに皺を寄せたような表情で順序立てて話す社会人然とした姿。彼女は、家庭内でもこんな空気を纏って結婚していた二年間を過ごしていたというのだろうか──。
僕の知らないその
「────あなたやご両親には、本当に申し訳ない事をしたと思っているわ……。責任があるというのなら、裁判でも応じます。それで、ちゃんと終わらせましょう?」
夏子ちゃんの提示した言葉にも、田端は低姿勢を貫いていた。
「そうじゃない……。この間もそうだったが、俺は謝るために来たんだよ。それに、裁判なんて……」
田端は、あくまで夏子ちゃんを取り戻すことが目的でここに来ている。そのために、あらゆる手段を講じる覚悟も見て取れた。
だが雰囲気から察するに、世間体と云うか周囲や両親からの圧力を気にしているような素振りも垣間見えた。それらは僕には無い感覚だったが、これが世間一般、普通の社会人というものなのだろう。
……つくづく、結婚というのは当事者同士だけでは済まない事象なのだと分かる。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し──、そんな文言が白々しく感じてしまうほどに。
実際、世の中では相手を真に気に入って一緒に暮らすことを目的、とはしていないことの方が多いのではないだろうかと、訝しくも思えた。
世間的には適齢期を過ぎたら結婚するのが当たり前、それができなければ無能であると見られても仕方がない。
それが嫌で、妥協に妥協を重ね結婚という着地点を見出す……。結婚に夢や希望ばかりを抱いていると、子供だと言われるような世の中だ。そして、結婚してしまえば今度はその看板を維持するために不満を内に秘めてでも、日々を過ごしていく────。
でも僕には、手本となる夫婦が身近にいたから結婚に対するネガティブな印象などは殆ど無かった。それ故に、彼女が結婚を決めた時も強く反対しようとは思わなかったのだ。
一方の、目の前のこの男の中では……果たして結婚とはどのようなものであったのか。そして、家族とは──。それを見極めようと、僕は少し離れた位置から二人を視界に収め、事の成り行きを見守ることにした。
「……私の前には来ないでと、言ったはずです。これ以上は────」
「君が安全な場所にいるなら、俺だってここには来なかったよ。……だけど、まさか……この村に戻っていたなんて……。だったら、俺の家にいたほうが余程ましだよ。夏子……もう一度、考えてみるんだ」
彼の言動は、とても静かだ。
改めて思う、この男は決して暴君でも無能でもないのだろう。
あくまでも、夏子ちゃんとの妥協点を引き出そうという姿勢が見受けられていた。
そして、原因はあくまで自分側にあるのだという立場を貫こうとする矜持も感じる。たとえそれが、建前や詭弁であろうとも。
固い口調ながらも、夏子ちゃんはそんな田端に対して冷静に言葉を伝え続けている。……彼女の劣勢が明らかに目に見えるようなら、僕は割って入るつもりだったが、事はそう単純ではないらしい。彼女の雰囲気からも、ここは見守るしかないということが感じられた。
「私は、裕福な暮らしとか、世間での
「ちがうよ、それは俺の親が言ったことだ。俺は……そんなもの望んでいないんだ。それは、わかってほしい。君が一緒にいてくれれば、それでいいんだよ」
察するに……田端の両親が、事の遠因であったことはどうやら間違いないのだろう。そして、それは彼自身も理解しているのだろう。
「……私は、田舎者で貧乏ぐらしの染み付いた、馬鹿な女よ? あなたとは、もともと釣り合いが取れていなかったの──」
そう言って卑下する彼女の言葉に……何故か、彼は少し怒りのようなものを滲ませていた。
「田舎者だなんて思ってないし、たとえそうでも俺には関係ないよ。確かにここなら、生活費は安いかもしれない、だけど……だからって、君がこんな所に……────なにも……こんな村に住まなくたって、いいだろう!?」
彼の言葉には、彼女ではない別な何かに向けた怒りが籠もっているのが感じられた。……きっと、夏子ちゃんと美春さんがこの村の人間から受けた仕打ちについては、田端も聞き及んでいたのだろう。その声には、確かに嫌悪感が含まれていた。
こんな村……。
たしかに、そうだ。
村というものを構成する要素はいくつかあるが、大部分はその土地に住んでいる人間に依るところか大きい。そう考えれば、この村は決して『良い場所』などではない。
粗野で低俗で無思慮で、自分勝手で……狭い世界での権力者が幅を利かせている。都会に数年出ていっては地元に帰ってきて東京風を吹かせる奴と、それを「優れた良いもの」として歓迎する都会崇拝思考の行政。田舎でありながら都会のまがい物を必死で仕立てようとする、名ばかりの発展と振興。金こそが正義で権力、声の大きな者が叫べばみんな右に倣え。同調しない者は虐げても構わないとさえ思っている、即物的で独善的な村人。付き合いが濃密であるがゆえに、世間体が何よりも優先される……そんな息苦しいムラ社会。
冷めた目で見れば、周りにはそんな人間ばかりだ。
決して褒められたものではないだろう。
だが、僕らにとっては小さい頃から生まれ育ち、慣れ親しんだ風土だ。そして、家族とともに生きてきた土地でもあるのだ。
他の人には理解しがたいことかもしれない。
土地の人間に虐げられたのに、尚その土地から離れられない気持ち────。
自分でも不思議に感じることがある。
利便性だけ考えれば、見るべきところなど何も無いような場所の
実際、他の土地で仕事をしてみたからこそ感じることもある。多少の不便さなら気にもならない。むしろ、似たような田舎なら慣れ親しんだ土地のほうがましだと感じてしまう心。
夏子ちゃん母娘も、
もはや理屈じゃないのかもしれない。血のつながりにも似た何かが、この場所には根付いているのだろう。
夏子ちゃんはそんな気持ちを、苦しみながらも言葉にして生み出そうとしていた。
「……あなたの言っていることは、わかります。でもここは、私のお父さんと……ううん────」
夏子ちゃんは顔を上げてはっきりと言った。
「玲弥くんの家族と私の家族が、助け合って一緒に生きてきた場所なの」
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