第14話 契り

 静かな夜。

 座敷にぴったりと並べられた、布団。

 

 いつもなら目を閉じればすぐに眠りへと落ちていくのだが、

 隣りにいる気配を感じて、僕はまた目を開ける。

 そこには、子供の頃から何度も見てきた天井。


 またここで、あの頃と同じように二人並んで床に就いている。

 ……多分、彼女も起きているのだろう


 僕もしばらく目を開けたまま、ぼんやりと虚空を眺めていたが

 やがて、隣に寝ていた気配が、動いた。


 それで僕は、なんとなく彼女の意図を察した。

 たぶん、この家に僕がいざなわれたのは偶然ではなかったのだろう。


 でも、それが果たして正解なのか僕の勘違いなのか確証が持てず、目を閉じて寝返りを打つふりをしながら彼女に背中を向けるように転がり、自分の布団の上に空間を作った。


 するとすぐに、

 僕の肌掛けの薄い毛布が捲られ、隣に彼女の身体が滑り込んできた。


 しばらく、彼女の存在を背中に感じていたが、不意にその手が伸び、背中に触れ、腕に触れ……やがて身体の前に回り、僕の身体を引き寄せるように胸に置かれる。


 幼馴染みの彼女と、女性としての彼女。

 僕の中でその二つはずっと矛盾無く同居していたのだが、今はその均衡は崩れており、更に既婚者だった彼女という要素が雑音となって重なり、僕を揺らしている。


 どこまでの事を求められているのか────僕は再び思考を巡らす。だが、抱擁するくらいは許してくれるだろうという思いもあり、僕は彼女の方へ向き直るために身じろぎをする────

「ごめんね、こっちは向かないで……?」

 しかし、彼女はそう言って僕の身体を押し留めた。

 代わりに、僕の身体を後ろから、ぎゅうっと引き寄せ抱きしめてくれた。

 彼女の柔らかな感触と、体温が直に伝わってくる。

 嫌が応にも、僕の身体にその熱が移り籠もってゆくのが感じられた。


 拒絶はしていない。けれど、まだその時ではないということなのだろうか。

 僕の逡巡に答えるように、彼女は小さく身体を寄せてきて、耳元で謝罪した。


「今、お薬飲んでるから……。ちゃんとしてから、じゃないと────ごめんね」


 言っていることは、分からなくはないが、今の僕には少し難しい。

 以前の夫婦生活の痕跡が身体に残るうちは────多分、そういう意味なんだろうと、僕は思うことにした。

 僕は、彼女を安心させるためと肯定の意思を伝えるため、胸に置かれていた彼女の手をそっと握り返した。彼女の指も、それに応じて微かに感触を変化させていた。


 彼女は、いくらか安心したように言葉を紡ぎ出した。

「また、この家に帰ってこられるなんて……思ってなかった」

 

 それは僕も同じだった。

 でも、ずっと願っていたのは間違いない。


 いつかこの家に。

 そう思っていたのだが、時が経つにつれ彼女のいない日々が積み重なり、やがてそれが日常に埋もれていき、いつしか諦めの気持ちのほうが強くなっていた。

 このまま会うこともなければ、彼女との思い出は幼い日の美しいまま────そんな身勝手な想いを抱いてしまったこともあった。


 しかし今、彼女と再会し同じ時を再び過ごして、同じ空の下で花を愛で、こうして肌を感じられる。どうしたって、彼女のいないあのモノクロの日々と比較になるはずがなかった。

 

 彼女との時間を、もう一度やり直せるなら。


「僕も……願っちゃいけないんだと、ずっと思ってた」


 誤魔化しようもない事だろう。

 僕も彼女が去っていったことに絶望し、無様なほどに嫉妬に狂い、彼女の結婚生活がいっそ壊れてくれれば────そんな醜い願望を抱いたことも一度や二度ではない。

 だが、彼女の選んだ決断に間違いがあったなら、他ならぬ彼女自身が苦しむことにもなる。それだけは、どうしても容認できないことだったから。

 いつしか諦めが支配し、干渉しないことが彼女のためと思い込んで生きるようになっていた。彼女の力になれない、幼く弱い自分がどうしようもなく惨めでもあった。


 あの日、去っていく彼女に「元気でね」の一言すら贈れなかった事を、後で何度も……何度も後悔した。


「あたしね……」

 夏子ちゃんの手が、また僕の指に絡み合う。


「結婚決めて、この家を出るときにね……玲弥くんのおじいちゃんに、言われたの。

『自分で決めたことなら、止めはしないよ。でも、辛くなったらいつでも帰ってきていいんだ。結婚したって、ここはずっと夏子ちゃんのうちだからね』……って」


 図らずも、あの時僕が言えなかった言葉を、じいちゃんは彼女に伝えておいてくれたということになる。じいちゃんも、内心あの時の結婚には手放しで賛成できない気持ちがあったのだろう。孫娘を、得体の知れない男の元へ放り出すようで──。


「うん。……僕は、やっぱりうれしいよ。こんなこと言っちゃいけないんだろうけど……夏子ちゃんが、帰ってきてくれて」


 嫉妬心の残る物言いではあったが、それでも僕の本心だった。

 その言葉とともに、僕は彼女の手を少し強く握る。

 だが、不意に彼女の吐息が震えだす。


「ごめんね……」

 夏子ちゃんは、静かに身体を震わせていた。


「せっかく……なのに────あたし」


 震える吐息とともに、彼女の言葉が哀しいほどに耳に刺さる。


「綺麗なまま、じゃなくて……ごめんね…………」

「────!」


 僕は彼女の制止に構わず、彼女の方に振り返った。

 涙で……ぐしゃぐしゃになった彼女の顔が、そこにあった。


「そんなことない……!」

 夏子ちゃんは老いてなんかいない、汚れてもいない、そう言ってあげたかった。でも、否定の言葉を発することそのものが、彼女を汚しているいるようで、僕はそれを告げる事ができなかった。


 たしかに彼女は一度、別な男のものになった身だ。

 だが、それが彼女の価値を下げることになるなんて、思ってもいな…………




 ────本当に?



 本当だ……!



 ────本気で、そう思ってる?



 ……っ!



 僕の心の声なのか、彼女の問いなのか

 どろどろとした思いが、僕の心を揺さぶって止んでくれない。

 それでも、腕の中で震える夏子ちゃんの体温を感じて、必死に自分を押し留めた。


 抱きしめているのに、何故かその腕が自分のものではないような錯覚に陥る。

 過去の記憶と、眼前の夏子ちゃんの顔が目まぐるしく脳裏を駆け抜け揺さぶり、僕の思考は千々に乱れていった。



 僕たちは、きっとおかしな大人のなり方をしてしまったのだろう。

 手足は伸び切っていても、心は素直な子どものまま。



 劣情に流されるまま身体を重ねてしまえば解決するようなことだと、世間の男女なら嘲笑わらうかもしれない。でも、僕たちはそれができない。幼馴染という足枷以上に、二人の積み重ねてきた時間とそれを隔てた空白の時間が、まるで河のように二人の間に横たわっているのだ。


 なぜ、どうして……こんな事になったのだろう。

 これまでずっと自分に問いかけてきた。


 彼女の小さく震える肩が、腕の中の温もりが、何故か今は怖かった。

 あんなに思い焦がれて求めていたはずなのに。


 今更、都合よく舞い戻ってきた彼女を、許せないのだろうか。

 去って行く彼女を引き止めなかった自分を、許せないのだろうか。


「ごめん……なさい」


 彼女のか細い声が……





 ────かこちゃんはわるくない、ぼくが行こうっていったんだ!



 …………─────?

 先ほどとは違う、別の……幼い声が届いた。

 誰の声だろう。



 ────ちがうの……あたしがぁ、あたしがさそったのぉ……!

 


 ……また聞こえる

 これは、幼い頃の夏子ちゃんの声……?




『『……ごめんなさい──』』




 ────もう、危ないところに行っちゃ駄目だぞ……?

 自分じゃない、玲弥くんがけがをするかもしれないんだからな?


 ……はぁい……


 ────おまえも…!


 ……いてっ


 ────夏子ちゃんを泣かせたくなかったら、お前が止めなきゃ駄目だ。

 もし、ふたりとも怪我してたら、誰が夏子ちゃんを負ぶって来るんだ?

 

 ……うん



 

 古い記憶が呼び起こされるとともに

 足の裏にある古傷が、じくりと傷んだ気がした。



 ……子供の頃、危ないから一人で行っちゃ駄目だと言われていた大きな川の淵があり、僕と夏子ちゃんは、夏休みにそこへ二人でこっそり遊びに行ったことがあった。どちらが誘ったのか実際には曖昧だったが、大人の目を盗んで二人で出かけるのは夏休みの特権だと思っていた。

 その時、遊んでいた夏子ちゃんが川の深みにはまったのを助けようとして、僕は足を取られ川底にあった鋭い石で足の裏に裂傷を負ってしまった。

 結局、川の深さは大したことがなく、ふたりとも溺れることこそなかったが、足裏から盛大に血を流している僕を見て、夏子ちゃんは半狂乱になりかけてしまった。

 それでも彼女の精神は、自分が「お姉ちゃん」であることだけは最後まで手放すこと無く────彼女は買ってもらって頭に巻いていたリボンをほどいて僕の傷にぐるぐる巻きにしてから、僕を背負い家までたどり着いたのだ。

 もちろん止血などできているはずもなく、下半身を血まみれにして帰ってきた僕らを見て二人の母親は仰天……そのまま二人とも村の診療所に担ぎ込まれ、その後は二人共が双方の父親からきつく怒られることになった。



 二組の両親から、僕らは一緒に育てられた。

 いろんな教え、いろんな心構えを授かった。

 最初から禁止するのではなく、失敗させてもらうことで僕たちはいろんなことを学んできたんだ。


 二人だから、失敗しても支え合えた。

 泣きながら、それでも彼女はお姉ちゃんでいてくれた。


 ……今度は、僕が彼女を背負う番だ。

 心に傷を負っているのは、夏子ちゃんの方なんだ。


 あの時、夏子ちゃんは必死に僕を背負って、家まで連れ帰ってくれた。

 僕のするべきことは…………



「ごめんなさ────」


 謝り続ける夏子ちゃんを、僕はぎゅっと抱きしめ、そのまま身体を起こした。

 あの日のように背負って立ち上がろうと思ったけど、腕の中の彼女の顔を見ていたくて、僕はそのまま立ち上がり、背中と膝裏の下に腕を入れて、抱き上げるようにして立ち上がった。


「──っ? れい、や……くん?」


 戸惑う彼女をそのままに、僕は彼女を抱きかかえて畳敷きから廊下を横切り……縁側から裸足のまま、庭へと降りた。

 頭上には、わずかに欠けた月が煌々と光を降らせている。


 月明かりの下で、カサブランカはわずかに花びらを開いたまま、そこに咲いていた。夜のしっとりとした空気に混じって、甘い香りが仄かに漂っている。


「子供の頃……こんな風に裸足のまま、夏子ちゃんは怪我した僕を背負って家まで連れて帰ってくれたよね」


 僕は、胸の中で震える夏子ちゃんに、そう言葉を掛けた。

 その言葉に、少しの逡巡を経て夏子ちゃんは思い出してくれたようだ。


「玲弥くん、私のせいで足に怪我したんだよね……」


 あくまでも、あれは自分の責任だったと思っていたらしい。

「ちがうよ……ふたりで行こうって、二人で決めたんだ」


 どちらかが悪いんじゃない

 一緒に行こうと言いだし、ふたりで頷きあって、二人で決めたことだったんだ。


「……引き止められなかった、むしろ僕が悪いんだよ」


 それは幼き日のことか、夏子ちゃんが結婚すると言ったあの日のことか……


「あの日は、二人で……決められなかった……。だからこんなに、ふたりとも苦しんだんだ」


 でもほんとは、僕のせいだろうと思う。

 夏子ちゃんに……「お姉ちゃん」に、甘えていたんだと思う。


「あたし、お姉ちゃんだから……」


 図らずも、腕の中の彼女はぽつりとそう言った。


「玲弥くんは、私を……お姉ちゃんでいさせてくれた。ずっと、昔からそうだったよね……。いつもあたしが言い出して、失敗して……ときどき迷惑かけても……それでも、しょうがないなぁ、って笑ってくれた」


 抱き上げていた……彼女の、腕が僕の首に回される。

 僕も、少しだけ彼女を胸に引き寄せる。


「いつも、ドジでおっちょこちょいだったけど……玲弥くんの前なら、あたし……お姉ちゃんでいられたの」


「変わらないよ……夏子ちゃんは、ずっと僕のお姉ちゃんだ」


 その言葉を聞いて、彼女はまた静かに涙を流し始めた。

 でも、その涙は先程までとは違う。


 そこには、安心が芽生えていたと思う。


「あたし、ここに……帰ってきてもいいのかな────」


 駄目なことなんかあるもんか。

 この場所は、僕たち家族の……


「もちろんだよ、ここは……夏子ちゃんの家なんだから」


「……っ」



 首に回された腕が、一層強く僕を抱きしめる。

 月明かりを浴びて、花の香りに包まれて……


 僕たちは夜の静寂の中、いつまでもお互いの存在を感じ合っていた。

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