人生初の冒険①
今日は、付き合い始めてからちょうど三年目って日だった。
そんな記念日に「話がある」ってホテルに呼び出されたもんだから、今年二十六歳になるあたしの脳裏に過ぎったのは「結婚」の二文字。
相手はふたつ年上でお互い年齢的にもちょうどいい感じだし、付き合いも三年ともなれば自然とそうなるもんだと思う。
浮気してる兆しなんて一切なかった。
別れ話を切り出される予感なんて全くなかった。
そもそも一昨日は彼氏の家に泊まってセックスもしっかりしたし、昨日の夜の通話の時にも至って普通だった。
別れ話を切り出されるその瞬間まで、「いつも通り」だった。
プロポーズされるんだと九割方思ってたあたしの方が、いつもと違ってたかもしれない。
少しソワソワしてたように思う。
そんなあたしにあのフザけた男は、浮気してると告白した。
何の前触れも無く、ホテルのラウンジに座ってアイスコーヒーを頼んで、それが運ばれて来て一 分もしないうちに、「俺、浮気してる」と告白した。
何よりもまず引っ掛かったのは、「浮気してた」じゃなくて「浮気してる」って言葉。
過去形じゃなく現在進行形で切り込んできやがったって事。
それが導き出す結果は悪い方だって決まってる。
現在進行形で浮気を告白してきて、いい結果に結び付く訳がない。
例えば過去に浮気をしてて、ずっとずっと隠してたけど、罪悪感が大きくなって隠し続ける事が困難になった場合、それを話すのは大抵「許し」を乞う為に
でも現在進行形は違う。
進行してる浮気を告白するのは、「別れ話」か「二股宣言」のどっちかしかない。
許しを乞いたいなら最低でも別れてくるのが必須条件。
だからもうこの時点でフザけた男があたしに打撃を与えてくるって事だけは分かった。
折角の記念日に打撃を与えてくるって分かっただけで充分な打撃だったのに加え、プロポーズされるんだろうって思ってたから、この時点で大打撃だった。
なのにフザけた男は、まず浮気相手との出会いを語った。
そんな事聞きたくもないのに、言い訳するように語った。
語って、語って、語りまくった挙句に、あの台詞を吐きやがった。
――お前は強いから俺がいなくても平気だろ?
フザけんな。
あたしは決して強い訳じゃない。
本当は甘えたり頼ったりしたかった。
だけどお前が優柔不断で頼りないから、甘える事も頼る事も出来なくて、あたしがしっかりしなきゃいけなかっただけ。
お前の
甘えさせる事も出来なかった自分の事は棚に上げて、「お前は強いから」なんてよく言えたもんだ。
この三年間、一体あたしの何を見てたんだって話。
お前のその一言で三年って年月が一気に無駄になった。
浮気された事よりも、あたしの事を何ひとつ理解してくれてなかった事が悔しい。
込み上げてくる「畜生」って気持ちは、そっちへの方が大きい。
畜生、畜生、畜生――。
「――ふざけんな!」
ドンッと大きな音を立てて飲み干した生ビールのジョッキをカウンターに置いたのと同時に、口から気持ちが飛び出した。
どうやったってあのフザけた別れ話のあとじゃ真っ直ぐ家に帰る気になれなくて、酒でも飲まなきゃやってられないって気持ちに後押しされて、立ち寄った行きつけのバー。
バーって言ったって小洒落た店じゃなく、立ち飲み屋とショットバーを足して二で割ったような、薄暗い店。
客が多くてちょっと騒がしいけど、家にひとりでいるよりは全然マシ。
「何? 荒れてんの?」
カウンターの向こうからバーテンダーのヒサシが声を掛けてきた。
この店の通うようになって顔馴染みになったヒサシは、あたしと同じ年なのに結婚もしてる。
同じ年でも歩んでる人生が違いすぎる。
あたしはプロポーズすらされた事がないのに。
一瞬、あった事を全部をブチまけて愚痴を零そうかと思ったけど、そういう気分にすらなれないからやめた。
まだ愚痴れる段階じゃない。
あんな事言われた、こんな事言われたって話したら情けなくて泣いちゃう気がする。
それは嫌だ。
泣きたくないからこうやって家に帰らずここに来たのに。
「別に大した事ない。ちょっとストレス溜まってるだけ。それよりおかわり。何かカクテル作って。強いやつね。甘いやつはやめてよね」
ヒサシは追及はしないで、「はいはい」と笑って後ろにある棚からお酒のボトルを手に取った。
今日はあたし以外にひとり客がいない。
カップルや友達同士ってのが多い。
海賊映画で出てきそうな大きな酒の樽をテーブルにしてるテーブル席はどこもかしこも賑やかで、カウンター席にいる二組のカップルも何だかやけに楽しそう。
だから少しだけ虚しくなった。
「はい、お待たせ。ご希望通りアルコール度数が高いカクテル」
その言葉と同時に目の前に置かれたのは、丸みのあるカクテルグラス。
「何、これ? ドライマティーニ?」
オリーブは入ってないけど色合い的にそんな感じだったから聞いてみたら、
「違う。俺のオリジナルカクテル」
ヒサシは得意げに答えて他のお客の所に行った。
オリジナルなんて美味しくないんじゃないの――と、恐る恐る口を付けたカクテルは、何の味もしなかった。
本当は味があるんだろうけど、アルコールが強すぎて口の中が燃えるように熱くなって味を感じなかった。
物凄くアルコール度数の高い水って感じ。
でも今日はこんな感じがちょうどいい。
口の中に味が残らないからバカ飲み出来る。
バカみたいに飲んで、バカみたいに酔っ払って、何も考えないで眠っちゃいたい。
記憶が飛んだらもっと素敵。
一時間ほど前のあのフザけた出来事の記憶まで吹っ飛んでしまったらもっともっと素敵。
いやいや、今日までの三年間の記憶を無くしてしまいたい。
そして無くなった記憶は一生戻ってこなきゃいい。
あたしの人生からあのフザけた男とのアレコレを抹消してしまいた――。
「――トメさんって人いる?」
ハッとした。
背後から名前を呼ばれてハッとした。
コンプレックスである「名前」を呼ばれたから全身から血の気すら引いて。
「あっ、あんたがトメさん?」
振り返るとそこに、全く見覚えのない金髪の若い男がいた。
見るからにチャラチャラした男だった。
バーに来てるくらいだから大学生くらいなんだろうけど、それにしては童顔なチャラチャラした男だった。
目鼻立ちは整ってる。
女に不自由しそうにない顔。
だからなのか心底軽薄そうに見える。
「トメさんでしょ?」
人前で連呼されたくないあたしの名前を口にしながら近付いてきた金髪の男は、隣に来て足を止めた。
そしてカウンターに右肘を突いて、悠然って感じで
慣れてるって感じのその態度が、軽薄さに拍車を掛けた。
「な、何であたしの名前――」
「オトシモノ」
薄い唇の端を上げて金髪の男が見せてきたのは、あたしの名刺入れ。
来た時だかに落としてしまってたらしい。
それをこの金髪の男が拾って、あたしの名前を知ったらしい。
拾ってくれたんだから有り難い事には違いない。
違いないんだけど。
「誰のか分かんないから勝手に中見たけど、それは勘弁してね。トメさん」
名前を連呼されるのは勘弁ならない。
自分の名前が嫌いだ。
昔から、「トメ」なんて婆さんの名前みたいだから嫌だった。
この名前の所為で小学生の頃の
つまり、小学生が婆さんっぽい名前だと思うような名前って事。
両親がどういうつもりで付けたのか
もっとオシャレな名前がよかった。
小さい頃からずっとずっとそう思ってた。
だから名前が酷くコンプレックスで、親しい人にも呼ばれたくない。
「名前で呼ばないで」
見知らぬ男になんて絶対呼ばれなくもないし、連呼されるなんて以ての外。
「あっ、ごめん。馴れ馴れしいの嫌だった?」
金髪の男は一瞬きょとんとした表情をつくり、すぐにまた口許に笑みをつくって勘違いを口にする。
でもわざわざ「自分の名前が嫌いだから」って説明する義理もないし、確かに馴れ馴れしいのも嫌だから黙っておいた。
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