11.そのαは、自分にとっての番を『心臓』と表現した。

「えっと、大丈夫? 少しでも落ち着いたかな」

「――すみません。見苦しい所をお見せしました」


 おろおろする灯莉が必死で声を掛け続けた結果如月は恐らく五分かからない程度で落ち着いた。

 一体自分の言葉の何処にそこまでの号泣を導き出す要素があったのかさっぱり分からない灯莉に如月は軽く鼻を啜って「少し聞いて頂けませんか?」と一言置いてから話し出す。


「すみません……。私は確かに動画で『貴方の意思に従う』と言いました。あの時は、心の底からそう思っていました」

「あ、うん」


 動画の内容を思い出して頷く灯莉に如月は続ける。


「でも貴方のフェロモンが微かに付着した手紙を受け取った時、ずっと前に自分のせいで見失った自分の『心臓』が一瞬だけ手元に戻って来た様に錯覚しました」

「……『心臓』」


 いや、それ見失ったらそもそも生きてられない必須の臓器じゃない? なんてムードもへったくれも無い考えが頭を占領するが声に出していないのでセーフだろう。


 でもこのαは、確かに灯莉のことを『心臓』と表現した。

 第二性について色々学ぶ内にαが自分の番を呼ぶ言葉には色々特徴がある事が分かった。因みに入手した情報はα本人が言った物では無く、上手く行っている組み合わせのΩ側が記した言葉が多い。

 あるαは『半身』、別のαは『宝物』、また別のαは『生きる理由』。

 因みに恥ずかしながらも実の父にも聞いた所、父は顔色一つ変える事無くいつものテンションでアッサリと言った。

 ――秋帆は『私の全て』だ、と。

 色々と物騒で理不尽な情報が多く見受けられるのがαとΩの関係だが、双方合意の元思い合うことが出来るなら幸せになれるのかもしれない。


 でも……それには『直接会う』ことが必須だ。

 そしてそれをしてしまえば灯莉の人生は根底から変わってしまう。いくら他人のフェロモンに影響はされないと言っても仕事だって今と同じポジションで同じ業務量を熟し続けることは不可能だろう。

 Ωを冷遇することはもう国の法律で禁止されている。違反すると企業側にはとても重い罰則もある。

 しかしそうは言っても『三か月に一度一週間必ず抜ける』人間に突発的な変更がいつ起きるか分からない大きな責任を伴う仕事を任せる会社は現実的に考えて多くは無い。

 だから必然的に任される仕事は補佐的な業務が増えるのだ。それだって会社という組織を円滑に運営していくのに必要な役割で、決して軽んじるつもりはない。

 だが必死に努力して勉強して資格を取ってずっと目指していた今の仕事に就いた灯莉にとって、如月と会うという行動の結果失うことが確定している物は……余りにも大き過ぎるのだ。


 だから灯莉は自分から先に言ってしまうことにした。

 一度でも灯莉のフェロモンを嗅いでしまった如月が色々あって体調不良になった事実に先に触れられるのが怖いという卑怯な打算があったことは否定しない。


「俺……仕事好きなんだよ」

「え?」


 灯莉が自分から自分の事を打ち明けるとは思っていなかった如月が素で驚いたような声を出したがすぐに彼は謝罪して「聞かせて下さい」と言う。

 それに短く言葉を返して灯莉は話を続けた。


「貴方の輝かしい経歴から見れば下らないレベルでも、俺は俺なりに努力して今の生活を手に入れた。仕事もそれなりに認められてしんどい時も確かにあるけれど基本的には楽しいと思ってる」

「――はい」

「でも、貴方と一度でも会うと俺はそれを全部失うんだ」

「……」


 小さく如月が息を飲んだ。

 反論や否定、論破のような行動に出られたらどうしようかと一瞬思ったがその心配は必要無かったらしい。


「今の俺は本当に普通の『βの男』として生きている。最後の恋人と別れて随分経つけれど、少ないながらも今までいた恋人は全て女性だった。……そんな自分が今まで積み上げた仕事上のキャリアも、『βの男』として生きて来た人生も全て手放して『ヒート』に振り回された挙句排泄器官を女性の様に滴らせて『俺を噛んだα』に追い縋って生きるなんて、申し訳ないけど一切考えられない。だから、貴方との関係をどうこうするつもりは無い。それが、俺の素直な気持ちだ」

「……――」


 灯莉が話している間如月は一度も口を挟まなかった。ただただ静かに最後まで灯莉の言葉を聞いた。

 αの持つ優秀な頭脳を駆使して、その上で仕事にまでしている演技力を本気で使えば多分この男が灯莉を言い包めるなんて簡単なことだろう。

 でも……この男は、それをしなかった。

 沈黙が暫し続いて灯莉が何か言葉を足した方が良いのかと考え始めた頃、如月はようやく小さな声で切り出す。


「……では、会わなければこの関係の継続は許して貰えますか?」

「は?」


 それは灯莉にとって正直意味の分からない申し出だった。

 何度も何度も言っているけれど、αは番ったΩを捨てられる。

 父はああ言っていたけれど、如月が灯莉を噛んだのは完全にまだ確定していないながらも暴れ出してしまった本能に由来するもので初対面の二人の間に一目惚れだなんだという甘い感情があったとは到底思えない。

 だから灯莉がハッキリと「もう良いんだ」と言うある種の赦しを与えれば彼は自分に釣り合う相応しいΩを心置きなく探して自由に生きて行けると思ったから切り出した話題だったのに、この男は何を言っているんだ?


 明らかに混乱している灯莉には恐らく気付いているのだろう。

 如月は一度深く息を吸ってから何かを覚悟したように話し始めた。


「気を悪くさせてしまうかもしれませんが――私が欲しい『赦し』はそれじゃないんです」

「え?」

「貴方に対して何かを求められる立場じゃ無いことは理解しています。理解していても、このまま終わるくらいなら言わせてください。『気にしてないから好きな相手を見付けて幸せになれよ』なんて言葉、一番要らないんです。それよりなら『一生掛けて償え』って罵倒されて便利に利用されて何もかも巻き上げられる方がずっと良い」


 ぐっと低い声に独特の深みが加わったようで灯莉は思わず息を飲んだ。まともな相槌すら出て来ない灯莉の小さな吐息だけを拾った如月の言葉は続く。


「私達の関係の主導権は貴方が持っています。私の生殺与奪も、間違いなく貴方が握っています。それを大前提として、お願いですから知っていてください」

「……」

「貴方との関係を完全に断ち切られたら、『俺』の人生にはもう何も無いんです。貴方が会いたくないなら――辛いですが一生会わなくても良いです。貴方に迷惑を掛けないように感情の処理の努力を生涯通して絶対に怠らないと誓います。だから、だから」




 ――『α』は番を捨てられる、という一般論の先入観をどうか捨ててください。私の人生に貴方以外の『番』なんて最初から候補者すらいないんです。




 低く擦れた、声量としてはそう大きくないどちらかと言うと静かな言葉だった。

 それでも灯莉には、まるで血を吐くような――そんな切実さをこれでもかと滲ませて形振り構わず泣き叫び縋り付くような必死の叫びに聞こえた。

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