車の中で
ぐじん
車の中で
光り輝くネオン街。
慣れない化粧やヘアアイロンを友人に手伝ってもらい、この日のために鞄や小物を揃え、将来への期待を抱いていた私を嘲笑うかのように蹴飛ばしてくれたネオン街。
私はそこに、ただ一人で取り残されている。
私は自分を取り巻く現実から逃げるために周囲に目をやることにした。
手を繋いで笑いながら居酒屋に入っていく夫婦。
赤い顔をしてホテルに赴く初々しい大学生っぽいカップル。
本来なら、私もああなっていたのかもしれない。
そう思うと、私の肩に乗る負の感情は更に重みを増した。
目の前には車が行き交う大きな道路がある。
タクシーや傷だらけの軽車両から、光沢のあるスポーツカーまで。
誰もが遠慮なくアクセルを踏んでいる。
私は歩道の端まで足を引きずるように歩いた。
こんな人生、終わりにするべきか。でも、迷惑かな……いや、それもしょうがないことかも……
様々な想いが、通り過ぎる車に負けない速さで頭中を駆け巡る。
そんな中、一台の赤い車が私のほんの少し前にある窪みになっている路肩に止まる。
その車は丁度私くらいの高さに、滑らかな線を描いたような形かと思えば正面は平たく、備え付けられたライトは睨みつけているかのように細い。
こんなものはどの車にも当てはまる表現だが……
車正面の中央、そこにあるマークがその車が何であるかを堂々と示している。
一辺足りない三角形もどき、その未完成の三角形に繋がり、囲む円。
銀のエンブレムがその車の価値を確かに理解させてくれる。
降りるのかな……
そう思って見ていると、開いたのはドアではなく、窓だった。
「僕なら君にスピードの話をしてあげる」
窓から見知った青髪の女が顔を覗かせて、訳の分からないことを言い始めた。
「さ、乗って」
私は言われるがままに、その車に乗らせてもらうことにした。
私が助手席に座ると、女は直ぐに車を走らせる。
「この車、いいでしょ?」
女は車内にかかる曲に合わせ、頭を揺らしている。
それに合わせて彼女の青いショートヘアが揺らめく。
どうしてここに彼女がいるのだろうか。
どうして彼女が私を車に乗せたのか。
考え込んでいると、彼女はその思考を邪魔するかのように口ずさみ始めた。
「i would talk about speed for you. i would talk about speed for you」
同じ歌詞を、音楽に乗るようにただひたすらに繰り返した。
「ねぇ、いい車だと思わない?」
彼女と私の感情の差は天と地だ。
彼女のそのご機嫌なテンションは、私にとって不快そのものだった。
けど、ちょっとだけ。
ほんのちょっぴり、羨ましかったりした。
「僕ね、君の為ならなんだってできるよ」
彼女のそんな宣言に、今までの不愉快な重みは、全て驚きの感情に乗っ取られていた。
「車の話もできるし、お金の話もできる。もちろん、家事とかもね」
彼女はいつの間にか、身体を左右に揺らすのを止め、真剣な眼差しで私を横目で見ている。
明るい髪型とは違う、暗い、海の底のような、惹き込まれる目の色。
幸いにも、彼女はいつも笑顔だ。
つまりは、目が半分程閉じているということだ。
そのおかけで、催眠の効果があるのではないかとすら思えるその美しい瞳に魅入られることは無い。
女は笑顔が似合うと言うが、彼女の場合は逆に思えた。
「君があの男に未練があるのかは知らないけど、僕と暮らす方があの男とよりはずっとかいい暮らしができることを約束するよ」
もしかして、私は口説かれているのだろうか。
「どうして……?」
疑問を口にすることしかできなかった。
「そりゃあ、君のことが好きだからだよ」
どうやら私は口説かれていたようだ。
女の子同士なのに?という言葉は口に出さない。
今はそれすら許される多様性の時代なのだから。
それよりも、私はどう返事するかを決めかねていた。
「見て、綺麗だと思わない?」
彼女がそう言うので、窓の外を眺めてみる。
私たちは今、A国本土とR島を結ぶ長い橋を渡っている最中だった。
私の家はR島にあるのだが……そんなことは、失恋中の私にはどうだってよかった。
あのネオン街の輝く虹色の光が、海の波に反射して美しい水の花畑を作り上げている。
「そうだな……返事をするなら、深く考えてみるべきじゃない?」
「もし僕が動揺するような返事をしてみたら、どうなっちゃうんだろう」
彼女はわざとらしく惚けた。
私を脅しているのだろう。無意味とも知らずに。
「きっと、他所の車にこの速度で衝突してしまうかもしれない。あるいは、誤ってハンドルを全力で切ってしまって、柵を乗り越え、この海に落ちていってしまうかもしれないね」
私は呆れて何も言えなかった。
普段の私なら、即刻にでも彼女の首輪付きになっていただろう。
私には何も響かない。むしろ、私を好いてくれる人と心中できるのなら、それはそれでアリなんじゃないかと思う程だった。
「返事、貰える?」
「私、そもそもあなたのこと、よく知らないから」
私の心情とは裏腹に、私自身は至って冷静だった。
彼女は確か同じ大学だったはずだ。
彼女はなぜか、いつも私の後ろの席を取っている。
私が席を変えても彼女はいつも私の後ろに座る。
後ろが埋まっていると、彼女はお願いをする。それを断れる人間は見たことがない。
私は彼女が資産家の娘で、私以上に友達を沢山持っていることも知っていた。
でも、だからこそ関わりたくなかった。
交わってはいけない人種だと思い込んでいた。
「そりゃあそうだ。だって、一目惚れだからね」
彼女はハンドルから両手を離し、やれやれと困った仕草をして見せた。
この間もアクセルを踏みっぱなしに、車の速度は更に加速し続けている。
前から迫る車をスレスレのところでようやく彼女はハンドルを握り、右に切る。
車が大きく振れると脳が揺れ、気持ちの悪さが喉元を遡ってくるがそれを抑え込み、私が興味無さそうに質問を続けると、彼女は退屈そうにため息を吐いた。
私が慌てた様子を見たかっただけみたいだ。
「理由は?どうして私なんかを好きに?」
多分、自分の精神を安定させる為なのかもしれない。
彼女なら私の気を良くさせてくれるだろうと心のどこかで期待していたのだろう。
「さぁ、運命の赤い糸が見えたとでも言いましょうか。単純に好みなんだよね。君の顔が、性格が」
それだけ?もっと他にはないの?そう言いたかった。
しかし、それはあまりにも傲慢だ。
彼女が告白してくれたのだ。私も告白してもいいだろう。
突拍子もなくそう思った私は本心を語ることにした。
「……私、お金とか、車とか、好きじゃないの」
背後からは赤と青の光を交互に点滅させたランプをつけた黒一色の車が三台、見苦しい音を立てて迫ってくる。
「ただ、彼の車に乗る姿が好きで、彼がその姿を自慢するのを聞くのが好きで……」
「都合のいい女に、なっていただけなの……」
頭の中に思考を巡らせるのと、自分の口から発するのではどうしてこうも違いがあるのだろうか。
てっきり、過去の話、自分の中で既に笑い話になったものであると思っていた。
涙が、頬から腕へ落ちる。
彼女にその姿を見られたくなかった私は窓の外に顔を向けると、いつの間にか橋を渡りきっているのがわかった。
涙をふいて、今度は私が横目で見てやると、彼女は首を傾げた。
「そっかー。てっきり、金と車が大好きなのかと思ってた。だからこんなに努力して車を手に入れたし、腕も磨いたつもりなんだけど……ま、この際だからお金とか車は忘れてよ。今はただ、この速さを楽しんで!」
彼女なりの気遣いだろうか。
いや、彼女にそんな気遣いは不可能だ。
彼女は今にも吐きそうな私を余所に、警察官たちを撒くのに必死になってハンドルを右へ左へと回している。
街角を五回以上曲がってから、ようやく警察車両の甲高い叫び声は遠ざかっていった。
私たちは車から降りて薄暗い路地裏に座り込む。
正確に言うと座り込んだのは彼女であって、私は膝をついて這いつくばり、その場で口の中の物を全て吐き出した。
今日一日はここで気絶するかのように眠っていたいが、帽子をかぶった公僕たちに追われている最中だ。
なんとかして頭をはっきりさせないと。
なんとかして喉をすっきりさせないと。
「ごめんね、酔っちゃった?車じゃなくて僕で酔ってくれたらよかったんだけど、なーんちゃって……」
彼女は頭を掻きながら反省しないでへらへらと笑っている。
これ以上退屈な冗談を聞かされる前に、返事をしてやろう。そして、そのうるさい口を塞ぐんだ。
「あの!返事、だけど……」
言い始めると、彼女はお喋りな口を噤み、耳をピクピクとさせて私の言葉を待った。
「……ごめんなさい」
「素晴らしい。その言葉を待っていたんだ」
私が自分の吐いた黄色い吐瀉物を見ていても、そんなことお構い無しに彼女は両手を上に広げ、こう続けた。
「むしろ、いきなり告白して運転中にでもオーケーもらえてたら、そっちのが動揺して事故っちゃってたかもしれないからね」
なんと恐ろしいことを言い出すんだ……
自分の不安定な精神状態にここまで感謝する人間は、この世で私以外にいるのだろうか?
「じゃあさ、友達からってのは?」
「……よろしくお願いします」
「それじゃあもう一回り、しよっか」
私は彼女から差し出された手を取って、立ち上がる。若干酔いが残っているが、これ以上の楽しみの前では無いに等しいと思い込む。
彼女は私の為に助手席のドアを開いて待っていたが、私はそれを素通りして運転席側に回った。
「次、私に変わって」
彼女は一瞬眉をひそめたが、次第に口の両端を上に、にやけた顔になる。
私を好きになったこと、後悔させてあげよう。
どれほど面倒臭い女に針をひっかけてしまったのか、見せつけてやらなくては!
「はは!凄い!どこでそんな技術を?とっても気持ちいいね!」
追ってくる警察車両は六台。
さっきののろまな車とは違ってスポーツタイプの物も何台か混じっていた。
彼女が言うにはヘリも追ってきているそうだ。勘弁して欲しい。
それにしても、いざ自分が運転するとなると、こんなにも車酔いに対して耐性ができるとは思ってもいなかった。
暗い陰鬱な住宅地を、甲高いタイヤの擦る音を鳴らしながら走り抜けるのは最高に気持ちがいい。
それに、たまに来る対向車は、私たちの車を見るなり、衝突を恐れて横に逸れてくれる。
まるで夜の王様になったみたいで気分が良かった。
こういった理由もあって、私は一度も酔わなかったのだろう。
「さぁね。でも、一度やってみたかったの」
「待って、一度?運転は初めてなの?免許は?」
初めて彼女の驚く顔を見た。
彼女の顔は室内灯によってはっきりと見える。
あ、可愛いんだ。
私が浮かんだ感想はそれだけだった。
彼女の見開かれた目はまん丸で、暗い青色をしていた。その真ん中は深海のように真っ暗だった。
私はそれに引きずり込まれてしまったのだ。
その時、私は彼女のことを好きになったんだと思う。
「持ってないし、運転したのも初めて。でも安心して?元彼の横でこういうのはずっと見てたから」
今度は私が余裕を見せる番だ、そう言わんばかりにへらっと笑ってみる。
すると彼女はそれに気がついたのだろう。
なんとか強がろうと肩に手を回し、私の耳元で囁く。
「元彼のテクでイかされるのは癪だな……もし生きてこのドライブを終えたら、僕の運転だけを見ていてよ」
「えぇ……生きていたら、ね」
私はそれを嘲笑い、私と彼女、そして警察官たちとの長い夜が始まった。
警察官をなんとか撒いた後、彼女は突然、私に"狂わされた"と被害者ヅラをし始めた。
僕は普通だった。でも私のせいで、同性愛者に。どう責任を取ってくれるんだ?と言い張っていた。
何を言っているのだろう。彼女は人格破綻者か何かか?
もしそうであれば、私たちは益々お似合いだ。
私も、"あなたに狂わされた"と言ってみた。
実際私も、普通の恋愛にしか興味を持たない人間だった。
彼女のその瞳を見るまでは。
彼女はその言葉を聞くなり、"これはもう、同意だよね?"と私を押し倒す。
が、その力は弱く、私は簡単に抜け出すことができた。
車で酔ってしまったのか、それとも元より非力だったのか。
私にはわからないが、今度は私が彼女に身を寄せ、こう言った。
「付き合ってみる?」
すると彼女は、彼女らしくなく、萎れ、
「はい……」
そう言って赤面した。
車の中で ぐじん @guzinn3335
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