家事ってこんなに大変だったんだ、遠くにいる君へ

木沢 真流

お弁当の作り方がわからない

「わたし、明日幼稚園いきたくなってきちゃったー」


 始まりは娘の勝手な一言だった。


「明日って土曜日でしょ。休んだら?」

「行くってひめちゃんに言っちゃった。大丈夫、わたし準備わかるから」


 準備なら私だって分かる。妻から一応教えてもらっていたから。ただ土曜日のそれはなかなか修羅の道だった。


「パパ大丈夫だよ、準備はいつもと一緒。ただね」


 そう、準備は大丈夫だが一番大変なのが……。


「お弁当だけはちゃんと作ってね。ママはね朝早く起きて作ってくれてたよ」


 お弁当。早く起きるのは大丈夫だ、ただお弁当なんて作ったことない。私にとってスペイン語を話すくらい未知の領域だ。

 かしこい娘はそんな私の表情を汲み取るのも早い。


「もし自信がなければ、ママに聞いてみたら? ビデオ通話で」

「ああ、そうするよ」


 私は夕焼けに照らされた茜雲を見上げながら、今からこの子を習い事に連れて行って、その間に夕食の準備をして——などとやらなければならないことを逡巡していた。

 こんなことを妻は毎日やっていたのか、と改めて頭が下がる。

(家にいる方が楽でいいよな、なんて言わなければよかった……)

 今更過去を悔やんでももう遅い。


 無事夕食が終わり、私が食器を洗っていると、娘が話しかけてきた。


「そんでね、ここの手紙を開くと……」

「おお、すごいね」


 とほとんど内容を理解しないまま私は食器を洗う手を動かす。


「パパ、ちゃんと聞いてる?」

「もちろんだよ。全部聞いてるよ」

「じゃあお弁当もよろしくね」


 しまった、すっかり忘れていた。お弁当なんてどうすりゃいいんだ。


「困ったらビデオ通話だよ、パパ」


 そうか、とりあえず聞いてみよう。

 私は一通りの食器洗いを済ませソファにもたれかかると、スマホアプリを起動させた。相手先は妻だ。画面に妻の顔が表示される。


「もしもし、どうしたの?」

「ごめん、お弁当作らなきゃいけなくなったんだけど」

「だって明日は土曜日でしょ? 休ませればいいじゃん」

「そうなんだけど、もう行くって聞かないんだよ」

 

 妻は苦笑いを浮かべていた。


「ご飯はしゃけご飯が良いって言ってたでしょ」

「もうそれは諦めてもらう。おかずって冷凍庫にあるやつでいいの」

「そう、枝豆とかミニトマトとか入れたらいいよ」

「あとは?」


 私は必死に説明する妻をぼんやりと眺めていた。本当に頼りになる妻だ。


「ちゃんと聞いてる?」

「ああ、ごめん。家事って本当に大変だよな、今までこんなことやってくれてたんだよね、ありがとう」


 妻の映像が一瞬だけ止まった。


「どうしたの、急に。今までそんなこと言われたことないのに」

「そうだね、言えなくてごめんな」


 画面の中の妻は何を答えて良いかわからず、止まっているようだった。それはまるで電波が悪くて静止しているのか、本当に考え込んでいるのか、画面越しには見分けがつかないほどの停止だった。その表情を見つめながら私の口からこんな言葉がこぼれおちた。


「早く帰ってきなよ」


 言ってはいけない言葉とは知っている。でもそれは本心だった。


「そうね、それができたら苦労しないんだけどね。でも私——」


 そう、妻はもう……。


「死んじゃったらしいから」

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