口実

西村たとえ

01

 私は、埃のかぶった着ぐるみの中から、この世界を漠然と覗いている。あるいは、ブヨブヨになってしまった玉ねぎの芯。何層も向いたその先に、私は僅かに在る。

それでは、私は誰なのか。

 今、警察官に事情聴取を受けている私は誰なのか。車の中でうつむいている私は、なぜ切符を切られたのか。自分よりもうんと若い警察官から「免許証を見せてください」と言われた時の、私の第一声が「時間、どのくらいかかりますか」だったのがひどく胸に残っている。いや、この罪悪感さえもすべて嘘かもしれない。

 警察官の「次からは気を付けてくださいね。信号をよく見ないと、危ないですから」という言葉で、私の運転をしていた車が人をはねたわけではなく、軽度の違反行為をしたのだと、ぼんやり気づく。

 それでも。それでもだ。

 さっきから助手席のバッグの中で鳴り続けている携帯の着信音だけが正しい、ということだけが鋭く解る。

 連絡元は私の親族だった。それが祖母の危篤を知らせる内容であることは、応答せずとも知っていた。

 ちょうどいいじゃない、ようやく田舎に帰る理由ができた。

 そんなことを考えた。その場面に立ち会うことによって、どうにもおかしくなってしまったこの心を、この劣化した感情を、恢復させるきっかけになるのではないか。そんな企みを得てしまったのだ。

 私は、いつでも車にカメラを積んでいる。好きでそうしているわけではなく、カメラマンという職業柄、周囲から撮られることを望む声が多いからだ。

 これまでは、よく知りもしない綺麗なだけの女の裸しか撮ってこなかった。レンズの向こうで嘘っぽく踊る表情は、私のがらんどうを埋めることはなく、きっと彼女たちのそれらも埋めることはなかったのだろう。

 それでは、死に瀕した身内の姿にカメラを向けることによって、埋没した私の心に何が映るのか。私は自分の感覚を確かめる思いで、カメラを回し始めた。

祖母の心音が無作為に鳴り響くような病室で、私はカメラの赤いランプが点灯するのを確認し、ファインダーを覗き込んだ。

 祖父の葬式以来、数年ぶりに会う祖母はベッドに深く横たわっていた。強く閉じた瞼、固く閉じられた口は、悶えているように、あるいは祈っているように見えた。光の差した鼻筋だけは、かろうじて肉眼で直視できた。むろん、声をかけても応答してくれなかった。

 彼女の皺。

 ひとつひとつが、何によって刻まれたのだろうか。私はそれをよく知らない。しかし、それらのうちのひとつ以上は、私が作ったのだと思う。

 そんなことを考えながら、いい加減に横たわった祖母を撮っていく。続いて、カバン、靴、のどあめ。ベッドの周りに置かれたそれらを、人の生活の断片を、写真に収める。

 ひとしきり撮影をした後、どこか違うなという感覚を得た。

 祖母の、気分の浮き沈みが激しいところ、他者に期待しない性格、月の収入をすべて使い切るような浪費癖、そういう性質が、私とよく似ていた。祖母の、宗教に傾倒しているところ、先祖を大切にするところは私と全然似ていなかった。好きも嫌いも、入り混じっているが、唯一、私の人生を応援してくれた存在だった。

 ベッドの傍に腰かけてフレームに私と祖母を映してみた。スマートフォンによるリモート撮影機能で、ひとりぼっちでも簡単に他者との写真を収めることができる。できるのに、シャッターは切れなかった。なぜか私は笑ってしまっていたからだ。

 こんなときにどのような表情が正解なのかがわからず、素の面にもどってみる。そこからは、ほんとうのがらんどうがスマートフォンの画面に映った。

 祖母の枕元には、乱雑な筆跡で書き連ねられた日記が置いてあった。ああ、これがいわゆる闘病日記だと思った。あまり見てはいけないものだと感じつつも、自然と私の手が伸びた。


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