2 縁
「どこまでいくの?」
タケルが指をぱちんとはじく。
動作の意味はわからないが、マキについてくるつもりらしい。
「オリオン」
マキはつまらなそうにつぶやく。つまらないわけでもないけれど。
「ああ、もうしばらくさきだな。てか、オレはまだ行ったことはないけど」
「私もないの」
「いいね、デートの目的地が以前どっちかが行ったことあるところだと温度差がでてくるし。でも、なんで?」
タケルはことさら楽しそうだ。
「……わからない」
「ふぅん、そう」
「なんとなく」
会話がなくなると、ティーポット内にピコピコ、ポコポコと音が流れはじめた。
あるいはずっと流れていたのかもしれないが、マキはいま気づいた。
AIの選曲による正弦波だけで構成されているというリラックスを目的とされた音楽だ。
じっさい、リラックスできているのかどうかはわからない。
しかし、リラックスについて意識していなかった時点でリラックスできていたのかもしれない。
AIについては21世紀に地球上ですったもんだがあり、各分野の専門家やら各国首脳やら複数のArtificial Intelligenceやらの論争の果てに、国際憲章が制定された。
これにより、AIは人間の知的能力の模倣技術という基本軸をはずさず、Another Idealとして個人に随伴することを提唱されたのだった。
つまり、人間の人間性を根底において、各個人の特性の10年後の理想をめどにした知性までの使用に制限されることになったのである。
たとえば算数が得意な人のAIには、高等数学の指南を受けられるけれど、ナビエ・ストークス方程式の一般解がもとめられるほどではないし、国語が好きな人は、意味があるかないかはべつとして、そこそこ読ませる文章について議論することができる。
もちろん学問にかぎらず、洗濯が好きな人は、雨降りの気配を察知しやすくなるし、犬のふんを年一回踏む人は、三年に一回ぐらいになる。
べつだん得意なことがなくても、気の利いた話し相手ぐらいにはなる。
なんせいまの自分よりは絶対的に利口なのだ。
これらが表す事実は、どこまでいっても、人は自分自身が好きだということである。
もちろん、自分がきらいという前提のもとAIの使用を拒否する人もいるけれど。
AIのリミッターについては、個々の裁量次第になっており、憲章を無視することもできる。
ただし、使用限度を犯してしまうと罰則があり、頻度や悪質性による点数方式になっていて、点数に応じた警告や罰金、失効などが生じることになる。
傾向としてホワイトラビットには多いというが、きわめて悪質であり、限度を越えて危険だと断定される場合、頭脳警察(Brain Police)による、AIの受容体(マイクロチップ)の強制削除が断行されることがある。
マキはUFО時代の研修プログラムで映像をみたことがあるが、強制削除によって神経回路を焼き切られた悪質違反者は、口を半開きにして、ぼんやりと宙空をみつめながら、ティーポットの操縦権をうばわれ、地球に連行されていた。
ただマキの目には、どことなく興奮性の神経伝達物質を投与されて悦に浸っている中毒者かなにかのようにもみえなくはなかった。
Another IdealなのかAnother Idiotなのかわかりゃしないね、という違反者を揶揄するジョークが流行ったこともある。
そのあと、タケルが「オレのポットでディナーでもどう?」とさそってきたが、そもそも感覚的には寝起きだし、以前おなじ状況になったとき、地球の都会の高層ビルの最上階のうす暗い高級レストランで、夜景がみえて星空が満天でくっきりした黄金の三日月で、マキの趣味に合わない甘ったるい器楽演奏を流され、ひっくりかえったクワガタのような気分になった経験しかないので、拒否してさきに進むことになった。
そもそもどんな美食を味わおうともティーポットで提供される食事は循環ものである。
「まァ、飯なんていつでも食べられるしな……」
タケルは露骨にがっかりしたが、もちろんディナーが流れたせいではないのはマキにもわかる。
それでもマキが、つれないフラミンゴのようなそぶりでティーポットの操縦席にすわると、「オレもこっちでいいよな?」とタケルがいつの間にかとなりの席をつくりだし、そこに腰かけてきた。
「方位はオリオンのイプシロン星にしてね」
「三つ星のどまんなかだ。アルニラムだっけ」
「М42星雲あたりがいいの」
「なんだ、M78じゃないのか」
「なんで……?」
「え、知らない? ウルトラの星。男のロマンなのかな?」
「ウルトラ……ロマン? よくわからないけど、そういうのやめて。しかも、男というより、タケルのでしょ」
「はいはい、すみませんでした――」
タケルの調子がもどってきたので、一瞬思い立って、さきほどDAT酔いをしているときにみた、夢なのかまぼろしなのかといった見知らぬ幼児のことを話してみようかと思ったが、マキが躊躇しているうちに、タケルが「よし、気をとりなおして――つぎのワープで一気に到着しようぜ」と、架空の操縦席の架空のスイッチボタンをポチっと押してしまったので、しかたなく、マキはぎゅっと両目を閉じた。
閉じたまぶたの奥に宇宙空間がひろがる――。
粒粒で構成されたブラックコーヒーのような暗闇に、こぼれたミルクのような天の川銀河が、はるか遠くで風に吹かれるカーテンのようにゆれて、束の間、懐中時計のふたに描かれたリーディンググラスをかけたとぼけたうさぎが、ちょっとびっくりして、あわてふためく。
時間に遅れそうなんだ――そんなことを思うと、天の川がまぜられたカフェラテのようにぐるぐると回転しはじめる。
最初はゆっくりだが、徐々にスピードがでてくる。
とても大きな銀のスプーンがカップをかきまぜる。
ああ、間に合った。
ティーパーティがはじまったのだ――。
瞬間――果てまでひろがっている宇宙の粒粒のすべてが、光線のように強く光り、一気にマキのまぶたのなかに押し寄せてくる。
容器の液体が漏斗でまとめられるかのように、マキの瞳に集まってきたのだ。
チカチカするきらめきは、流星群が集合して、長い尾をもつほうき星になったかのようでもある。
それは圧倒的な圧と、荒々しいほどの勢いで、マキの身体は水中でもんどり打ちながら浮かびあがるかのような感覚がある。
とても永い時間が、一気に凝縮されていて、息が苦しいような、胸が熱く焦がれるような、ふしぎな気持ちになり、それがマキをして、深遠にいざなう――。
なにかがいる。
その感覚にマキは目を開ける――。
まっしろだ……。
光のなか?
それでも、まぶしくはない。
ティーポットの内部か?
しかし、なにもない空間だった。
天井も床も壁もない。
上も下もないから一瞬、左右もない気がしてしまう。
それでも、マキをみつめている瞳がいた。
見知らぬ少女だった。五歳くらいだろうか――。
くせはそれほどない黒髪で、二重まぶた、小鼻はまるく、愛嬌のある顔立ちだが、どちらかといえば無表情で、まるで少女からすれば、マキが突然、目のまえに現れたというような顔にみえる。
マキは25になるが、結婚歴も出産歴もない。
体質的に可能かどうかもわからない。
ホワイトラビットになった時点で、良識の観点からみて、つぎの瞬間には宇宙の藻屑かもしれないと考えれば、それらの可能性については放棄しているところもある。
ホワイトラビットになる以前、家族や親戚にも幼女はいなかった。
マキは兄弟姉妹もいないし、両親とは10代半ばから疎遠だ。
当然従妹のたぐいもいない(いても知らない)し、もっといえば友人さえもいない。
マキは幼少期より、他者の介在がなければ生きられない心情のもちぬしではなかった。
AIにもそれほど相談をもちかけるタイプではないし、だれかがそばにいないと淋しいと感じることもない。
おっとりしているようにみえるせいか、いままで比較的多くの社交的な人々、男女問わずが陽気に話しかけてきたが、そっけないフラミンゴをふりむかせることはできず、遅かれ早かれ撤退することになった。
いつまで経っても喰らいついてくるのは、タケルくらいである。
え・ん・お・え・あ・け――。
すると、目前の少女が、ゆっくりと口を動かした。
なぁに――?
問いかえそうとしたが、ふいに少女の瞳の奥が太陽のようにまぶしくなってきて、マキは目を閉じて手で顔をかばう。
まるで光の疾風を浴びているような気分になった。
そのとき、ようやく気づいた。
いまの少女は、さきのDATで逢った幼児にちがいない。
少し成長していたが、面影もあるような気がする。
そして、なぜかなつかしい――。
すると、ピコピコポコポコと音楽が聞こえたので、マキは目を開ける。
さきほどとちがうのは、正弦波に重めのリズムがまざっている。
ズンチチスポポン。
どうやら、マキとタケルのティーポットが結合されていることによる環境の変化のようだ。
横のシートをみると、タケルはまだ瞑目している。
眠っているのか、眠っているふりなのかはわからないが、どちらにしてもマキにはおなじことで、マキから声をかけたりはしない。
AIがバイタルサインを報告してきた。
数値上の異常はなし、DATまえよりはるかにだるいけれど。
タケルが寝言をむにゃりとつぶやき、ふふと笑いをこぼした。
そういえば、タケルはマキへのつきまといに際して、「腐れ縁だよ」とよく笑っている。
ホワイトラビットには無縁の関係性じゃないかと思ったが、おなじ時代に生まれていることは、腐れ縁といっても過言ではないのかもしれない。
マキは、謎の少女の口もとを回想し、思いをめぐらせる。
え・ん・お・え・か・け――。
口を動かしてみる。
え・ん・を・え・が・け。
縁を描け――?
少女はそんなふうにつぶやいたのだろうか……。
ふと、マキの目前には、黄色い雲に覆われた小惑星が浮かんでいた。
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