魔物殺し令嬢、婚約破棄されたので荒野に出たら隣国の王太子に拾われました

重田いの

魔物殺し令嬢、婚約破棄されたので荒野に出たら隣国の王太子に拾われました

「貴様との婚約を破棄する!」

それはもう見事な一喝であった、という。

ただ事ではない雰囲気に広間全体がしんと静まり返った。

「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

婚約者にびしりと指さされたヘンリエッタは、首を傾げながら冷静な声で問い返す。その瞳には動揺の色は見られず、彼女はいつも通りだった。少なくとも、招待客たちにはそう見えた。

スロトリア国。

予備の王家とも呼ばれるほど初代国王に近しい血を持つウェストリウス公爵家の令嬢ヘンリエッタと、初代国王の正当な子孫である王家の王太子リカルド。二人は十年来の婚約者同士であった。

その日、王宮では王太子の誕生パーティーが開かれていたのだが、ヘンリエッタが控え室でいくら待ってもリカルドは現れなかった。仕方なくエスコートなしで大広間に入ったとたん、びしっ、婚約破棄だ! となったわけである。

「理由だと? ハ。いいだろう、教えてやる」

リカルドはきらめく金の長い髪をきらめかせ、びしりと指を立てた。それと反対の腕には可憐な令嬢がぶら下がっている。イーディアス子爵家の令嬢ルチアである。

「貴様が、この心優しいルチア嬢を虐げたからだ!」

キリッ。と叫ばれた理由とやらに、ヘンリエッタは心当たりはない。だが王太子がつらつらと指を折りつつ理由とやらを増やしていくので、身分が下で婚約者の彼女はそれが終わるまで聞き入るしかない。

「まず、お前主催の茶会に招待しなかったこと。それから俺と親しくするなと言ったらしいな? なんて醜い嫉妬をするんだ! いつも旅行とやらで王宮に顔を出しもしないお前なんかより、俺はこの可愛いルチアの方が愛しい。身分をかさに着た貴様の言動は目に余る。今夜成敗してくれるわっ!」

――きまった。と思っているのだろうか。リカルドは目を閉じ、自分の言葉の余韻にじーん……と浸った。よく手入れされたふわふわのお下げがワーウルフの子の尻尾のようだわ、とヘンリエッタは思った。

と、子爵家のルチア嬢がきゃあん、きゃあんと子猫のような悲鳴をあげてリカルドに抱き着いた。身分を弁えない行動にパーティーの参加者たちからは低い非難の声が上がったものの、王太子と子爵令嬢は気づく様子もない。

大きな緑の瞳をきゅるんっと潤ませ、二つ結びにした金髪をふりふりしながらルチアは叫んだ。

「ほんとにっ、ほんとにあたし怖かったのおぉ。ヘンリエッタ様はあ、あたしの言うこといっこも聞いてくれなくてえ。すっごい意地悪なお顔でええ」

こっちは森に住むニンフが男を誘うときのように麗しい声だ。内容はともかく、この声はとても好きだとヘンリエッタは思った。無表情で。

「おお、可愛いルチア! なんてかわいそうなんだ!」

とリカルドはルチアに頬ずりした。 

なんだか盛り上がっている二人に、ヘンリエッタはさてどうしようと考える。人間の気持ちをよくわかっていないというのは彼女の欠点の一つだった。彼女がゆっくりと口を開いたときには、すでにリカルドはびしっと手を振って宣言していた。

「こうした罪により、貴様は国外追放とする。今すぐ身一つでスロトリア国を出てゆくがよいっ」

みゃあん、とルチア嬢が歓声を上げた。ぱちぱちと人々の中から控えめな拍手が湧き、見ると王太子の側近候補――とは名ばかりの、取り巻きの下級貴族の子息たちである。上級貴族の子息子女たちはと見れば、衣擦れもたてずにこの場から退出しているところだった。さすが、的確な判断である。

(わたくしにもこういう判断ができる頭があればねえ……)

ヘンリエッタはぼんやりと、そして苦く、自分の鈍さを自嘲した。

それから見事な一礼を王太子に捧げ、そっと張りのある声で宣言する。

「かしこまりました。王太子殿下のご下命により、ヘンリエッタはスロトリア国を離れ異国にてこれからの生涯を送ります」

そして、美しい衣擦れを高らかに響かせて大広間から出ていった。背後で王太子と子爵令嬢が何かを叫んでいたが、すでに聞こえていなかった。




――さて。

ヘンリエッタは公爵家の令嬢であるから、当然馬車でしか移動したことがない。とはいってもこの時間、まだパーティーは終わっていないはずなので、当然馬車の待合所にウェストリウス公爵家の馬車はない。

「困ったわね。でも、しょうがないものね。少しだけ力を使っても、神はお怒りにならないわよね?」

彼女はひとり言を言うと、えいっと魔力を解放した。ぶわ、と足元に風が起こり、彼女の瞳の色と同じ、紫色の光が溢れる。

「【転移】」

とヘンリエッタが呟くと、圧縮された魔法が彼女の身体を突き動かす。

紫色の光の氾濫が収まって、ヘンリエッタは目を開けた。

そこは広大な荒野だった。スロトリア国は隣国との国境をこの荒野そのものに設定していた。荒野を越えて広がるのは、長年の宿敵である隣国アルヴェスタ国。だがヘンリエッタはアルヴェスタ国のことは嫌いではなかった。少なくとも、そこに住む人々のことは。

その理由はといえば。

「あら。――いやがりますわね」

ヘンリエッタのまっすぐな黒髪の先の先まで、紫色の魔力が充填される。彼女の魔力量は歴代最多、そして魔法の才能とコントロール力も歴代最高。ぱちぱちと稲妻のような音を立てて身体のすみずみまでを潤す魔力の凄まじさは、小型の魔物なら一瞬で蒸発してしまうほど研ぎ澄まされている。

そしてヘンリエッタは――この人間の気持ちに鈍くどこか抜けていて、王太子からはウスノロと罵倒されることもあった、のろのろ動く美しいお人形のようなこの公爵令嬢は、魔物に関して異常な執着と偏愛を持っていた。

「目標、東方向三時方面。数五体。種別、ゴブリン。戦利品か? 人間の革袋を持っている……スロトリア国のものか」

ぶつぶつ、口の中で確認を呟いて。

えいっ。ヘンリエッタは宙を飛んだ。爆発した魔力の残滓が、紫の虹のように夜の荒野を彩った。

「えいやっ」

まず蹴りを一発。これでリーダーなのだろう、一体だけ鎧をまとったゴブリンの頭部が破裂。血飛沫のボールは半径にいた他のゴブリンどもの視界を塞ぐ。

「はいはいっ」

くるんと空中で半回転して上半身を起こす。ヘンリエッタの両腕は魔力で強化された凶器と化した。左右の手刀が一発、もう一発。二体のゴブリンの胸部から腹部にかけて、はらわたが飛び出るほどの衝撃で切り刻まれる。

「逃がさなくてよー」

やっと状況に気づいたのか、荷物を放り出して走り出す残り二体。倫理観も仲間を思う気持ちもあったものじゃない下等な種族、だがヘンリエッタにはそれが愛しい。

「ほうら。とどめ!」

一体目の首の後ろを手刀が貫き、そこを起点にした上空からの回し蹴りが最後の一体に炸裂。一体目のちぎれた首から月夜へ向かって豪快に血が噴き出すと同時に、二体目の頭蓋骨は柔らかいプディングのように抉られた。

これにて終幕。ぱちぱちぱち。

誰も拍手をくれないのでヘンリエッタは自分で自分に拍手した。

「あ。いやだわわたくしったら……」

そこで、豪奢なパーティー用のドレスがすっかり血の色に染まって台無しになっていることに気づく。彼女はがっかりした。

どうして動き出す前に気づかなかったのか。せめてドレスを脱いで裸で戦っていればよかったのに。

「あーあ。新品だったのに。どうしましょ……」

うなだれてしまうヘンリエッタは満月に照らされ、辺り一面血まみれの地獄絵図だというのにそれはそれは綺麗だった。

――ぱちぱちぱち。ぱち。

拍手の音が聞こえるまで接近に気づけないでいたのは、彼が魔物ではなく人間だったせい。

だがヘンリエッタは反射的に身構えて警戒した。アシュレイはまあまあ、と両手を前に出してひらひらした。

「敵意はないよ、ヘンリエッタ嬢」

「まあ。殿下でしたの」

月夜。砂と岩と枯れ木と、ごくわずかな下草だけが広がる寂れた荒野。無数の魔物の息遣い。遠くでワーウルフの群れの遠吠え。

ヘンリエッタはぐしゃぐしゃになったドレスをつまみ、優雅に一礼する。

「我がスロトリア国の親愛なる隣国であるアルヴェスタ国の王太子、アシュレイ様にご挨拶申し上げます。よい月夜でございますねえ」

「こちらこそ、スロトリア国の麗しき【魔物殺し令嬢】ヘンリエッタ・ウェストリウス様にご挨拶いたします。――やれやれ、いつもと違う風体なのでみとれてしまったよ」

「お上手ね」

二人は声を合わせて笑った。

アシュレイはちょうど二十歳。十七歳のヘンリエッタの三つ上である。彼はアルヴェスタ国の王太子であり、そしてアルヴェスタ王立騎士団の団長だった。

がっしりした身体つき、背中に背負った大剣はその幅広さだけでヘンリエッタの胴体ほどもある。だがその剣さばきは目に留まらぬほど速く、ヘンリエッタと同等、あるいは彼の方が速いくらいだった。魔法も剣術も極めたアルヴェスタ国の輝ける星、アシュレイ・アルヴェスタ。

彼は太古の盟約に基づき、荒野で魔物を狩り、その個体数を管理する重要な役目を担う人だった。

見れば、アシュレイの方も鎧のあちこちに血飛沫が付き、短い黒髪のところどころ汚れている。さっきまで戦士の顔だった彼は、突然心配そうな顔になってヘンリエッタに跪いた。

「どこも怪我はしてないかい?」

「ええ、わたくしそんなヤワじゃございませんことよ」

「ご令嬢が、いったいどうしてこんなところで一人で? いや、一人なのはいつものことか。だが、いつもならきちんと女用の鎧を着て、武具も揃えている。君はまるで丸腰に見えるよ、ヘンリエッタ嬢。何があった?」

ごく一人の青年としてあたたかな声をかけられて、ヘンリエッタの肩から力が抜けた。彼女も彼女なりに、動揺していたのだろう。ついつい毎晩訪れる荒野に出向いてしまうくらいには、長年の婚約者に破棄されたのはこたえたのだ。

「実は――」

と彼女は話し出した。

「なんだって!?」

アシュレイは驚愕した。

「事情はわかった。なんてことだ――【魔物殺し令嬢】を手放すなんて、スロトリア国の王太子は気がおかしくなったのか? あなたが国のため、どれほどの魔物を狩り、貢献してきたことか。知らぬ者はいないと思ったのに」

「はあ。わたくし、そんなに大したことをしているつもりではなかったのですけれど……」

ヘンリエッタはおずおずと答えた。眠たげだ、と評されることが多いタレ目の紫色の瞳孔がきょと、と動き、それから二人は同時に動いた。

人間の隙を伺っていた小型の、とはいえ馬車馬くらいはある飛竜が二体、首を切られ、もぎ取られてどうっと倒れ伏した。その振動により小型の魔物たちが泡食って逃げていく。

さらに広がった血だまりと、もはや修復不可能なドレスにヘンリエッタは悲しくなった。

「とにかく、いったん退こう。ちょうどそうしようと思っていたところだったから」

とアシュレイは言う。はい、とヘンリエッタは頷いた。

「でもわたくし、行くところがないんですの」

彼女は俯いた。

「婚約破棄されてしまったのですもの。王宮はもちろん、おうちにだってもう戻れませんわ。お父様がどれほどお怒りになることか――」

「何を言っているんだ、俺が血みどろのご令嬢を荒野に一人ほっぽり出していく男に見えるかい?」

はい、と籠手をつけた大きな手が差し出される。ヘンリエッタは紫色の目を見開いてアシュレイを見つめた。

短い黒髪、浅黒い肌。人を支配し、命令することに慣れた太い低い声をひそめて、彼は少しだけ照れ臭そうに笑った。笑うと切れ長の目がふわんと柔らかくなって、綺麗だわとヘンリエッタは思った。

「一緒に行こう、ヘンリエッタ嬢。いや、一緒に来てください。アルヴェスタ国は国を挙げて君を歓迎するよ。本当に長い間、君は俺たちと一緒にこの荒野を彷徨ってくれた。同じ苦労を一緒にしてくれたのだから」

「でもわたくし、スロトリア人なのに……」

「王太子の俺が言っているんだよ。それでも?」

ヘンリエッタはぱちぱち瞬きした。それから満面の笑みを浮かべて頷いた。

「――はい!」

それで、そういうことになった。

余談だが後年、このときのことを振り返ってアシュレイは、あれほど美しいものがこの世にあるのかと思ったと真顔で語る。




一夜明けて。スロトリア国の王宮には、国王の絶叫が響いていた。

「この……ッ、この、馬鹿ものがあああああ!」

「痛いよっ、痛いよ父様アァ。なんで俺をぶつのさあ。うわああああああん」

と、泣きわめいて父親の振り上げる杖から逃げ惑うのは、昨夜邪魔な婚約者をやっと追っ払った勝利の美酒の酔いも抜けない王太子リカルドである。

「あなた、そのくらいにしてくださいな。もういいじゃありませんか。婚約者なんて誰でも同じでしょお?」

と国母でありリカルドの実母である王妃はにこにこ微笑み、その傍らで子爵令嬢ルチアはにやにやしていた。

「ほら、この子が自分で見つけてきた婚約者はとっても可愛いわよ?」

「はいっ、あたしカワイイですよぉ国王様あ」

国王はぐったりと玉座に座り込む。

王の間。いつもなら臣下たちが奏上と朝の会議という名のご機嫌伺いにくる午前中の時間だったが、今は彼ら四人以外、人っ子一人いない。国王が追い払ったのである。

「あたくしも、別に仕事らしい仕事はしてないのだし……ヘンリエッタにはかわいそうだったけど、あの子は夜な夜な家を抜け出して遊びに行く悪癖があったのよ? あんな子じゃ、リカルドちゃんがかわいそうでしたわ」

「そうですよっ、きっともうとっくに処女じゃなかったですよヘンリエッタ様は。あたし、処女でえっす!」

王妃とルチアは楽し気に手を取り合った。国王は死んだ目でそれを見上げた。

彼の父親、先代の王は王妃とその実家の介入にそれはもう苦労した。賄賂が横行し、予算はどこかに消え、どこの馬の骨ともしれぬ輩が宮廷に入り込んだ。百年以上続いていた荒野への魔物討伐隊を出せなくなるという国家の威信を落とす失態を演じたのも、ひとえに彼の母親の気が強すぎたせい。

だから自分は政治に口を出さない、とにかく無能な弱小家の娘を求めた。

「あたくし、子爵家の出なのよっ。ルチアちゃんとはおそろいねーっ?」

「ねーっ」

と小娘と盛り上がる妻は、確かに彼の望んだ通り遊び暮らして国政を乱さなかった。その点はよかった。そのお気楽な性質が息子に全部いってしまったことには気づいていたが、厳しく管理できているつもりだった。まさか息子がヘンリエッタを排除し、妻そっくりの婚約者を連れてくるとは思わなかったのだ。

きゃあきゃあ盛り上がる彼女たちを放置して、国王はリカルドと目を合わせた。彼はまだ痛そうにあちこちをさすっていたが、父親の注目を知るとにっこりして胸を張った。

「どうです? 母様とうまくやれそうでしょ? 嫁としての資質、バッチリでしょ、ルチアは!」

「……ヘンリエッタ嬢はな。【魔物殺し令嬢】との異名を持つほど魔法の扱いに優れた少女であったよ。我がスロトリア国の国防に、どれほど貢献してくれたかもしれぬ。このままでは我が国は、もはやダメになるであろうな……」

「はあ? 何言ってるんですか父様? あいつは……」

「お前は知らなかったであろうよ。そうとも。儂が何も教えぬよう、側仕えたちに言い含めておったのだ。お前のことだもの、どうせ知ったその日に友人知人に言いふらすだろうと。成人するまでは教えないでおこうと決めたのだ」

「なんでですか? その……魔物? ごろし? って何? ていうか、ヘンリエッタが何してたとか関係ないでしょ。ウチの国はもうずっと長いこと平和じゃないですか!」

金髪のお下げを振りながら、リカルドは王妃そっくりの愛らしい笑顔を浮かべた。十七歳の男なのに、もっと年下の女の子にも見える笑顔だった。

「これまでずっと平和だったんだから、これからもずっと平和でしょ!」

「馬鹿者がっ。いいか、よく聞け。――我が国と隣国アルヴェスタ国との国境にあたるあの広大な荒野には、魔物が湧く魔界との【裂け目】があるのだ。そこからは百年に一度、大量の魔物が湧きだしてスロトリア国とアルヴェスタ国を襲う。それを沈めた初代勇者こそ、我がスロトリア国の初代国王だ。そしてヘンリエッタ嬢は、初代国王の生まれ変わりだ!」

リカルドはぽかんとした。王妃とルチアも口を開けたが、これは話の中身を理解できなかったためである。

「そして百年に一度の【大厄災】が訪れるのは、十年後だ! いいか、わずか十年後だぞ。ヘンリエッタ嬢は来年、王太子妃になる予定だった。そしてそれまでにスロトリア騎士団を鍛え上げ、討伐隊を再編成し、荒野の魔物を狩ることに慣れさせる……それから、【裂け目】に勇者として向かわせる手筈だったのだ。もちろんお前も同行するはずだったのだぞ、リカルド」

「うちのリカルドちゃんはそんなことしませんっ!」

王妃はぷん! と頬を膨らませて腰に手を当て、夫が座る玉座の目に仁王立ちした。これまで彼女はどんな要求であろうと、こうすれば叶えてもらえたのだった。

「そんな危険なこと、させませんよおっ」

国王が疲れ切った目で妻を見つめる横で、リカルドは徐々に目を見開いた。

「じゃあ、そんな……そんな、じゃあ、俺じゃなくてヘンリエッタが選ばれたってことなの!? なんでそんなことになってるんだよ! 許せない!」

彼はがばりと顔を上げ、天上を見上げてわななく。その手を取ってルチアは一緒に義憤に燃えた。

「そうよ、許せないわっ、ヘンリエッタなんて討伐しちゃいましょ、殿下あ!」

「そうだ、そうしよう。オー!」

「おー!」




スロトリア国の【魔物殺し令嬢】の名は、アルヴェスタ国では有名だった。

先代国王のときに魔物の討伐から手を引いた隣国のせいで、二国分の負担を押し付けられていたアルヴェスタ王立騎士団は、ヘンリエッタがアシュレイと一緒に魔法陣から姿を現すと、夜の鍛錬の手を止めて我先にと駆け寄った。

「ヘンリエッタ嬢! ヘンリエッタ様じゃないですか!」

「うわあ、どうしてアルヴェスタへ? ようこそ!」

「こんばんは、ご令嬢。お水いりますか?」

「先月の巨大化した大猿の討伐、お見事でした!」

「ぜひ剣を教えてください、ヘンリエッタ様!」

とわあわあ口々に言うむきむきの男性たちの群れに、ヘンリエッタはちょっと引いた。

アルヴェスタ国王城。無骨な石づくりの城である。中庭の鍛錬場は広かったが、騎士たちがすし詰めになり、暑苦しい。

「はいはい、どけどけ。夜に騒ぐんじゃないよ。またメイドたちに怒られるぞ」

とアシュレイは彼らを蹴散らし、ヘンリエッタを王城に入れた。夜だと言うのに侍女たちが出て来て、優しくヘンリエッタをお風呂に入れて洗い、着替えさせてくれた。

「ありがとう。気持ち悪かったの」

「まあ、お姫様が私たちにお礼をおっしゃるなんて……」

「あの、私、去年危ないところを助けていただいた騎士の妻です。その節は本当にありがとうございました」

「私も、父を救ってくださってありがとう」

「兄もおかげで、足が不自由になりましたが生きて帰ってきました。ありがとうござます、【魔物殺し令嬢】様」

感謝の波に、ヘンリエッタは目を白黒させた。

スロトリア国では何をやっても褒められることなどなかった。彼女が興味を持つのは魔物そのもの、そしてそれらを殺すことだった。まるで生まれる前に宿命づけられたかのように、彼女のすべての注意は魔物に注がれた。その膨大な能力は魔物を殺すために用いられた。

それ以外はとんとだめで、令嬢としての資質に乏しいと言われ、もし生まれたときに極秘裏に神官から初代国王の生まれ変わりであると宣言されていなかったら、王太子の婚約者なんて到底なれなかったに違いない。

(わたくしにこんなによくしてくれるなんて、なんていい人たちなんだろう……)

とヘンリエッタは感謝した。

元々、荒野を彷徨い魔物を狩るのもその疲れた身体を引きずって王太子妃になるための教育を受けるのも、おかしいことである。だがヘンリエッタはそれに気づかない。ずっとそういう扱いだったから。

部屋着ではあったが、清潔で綺麗なドレスを着せてもらうと嬉しかった。案内された先は客間らしいところで、アシュレイがいた。鎧を脱いでこちらもさっぱりしたズボンとチュニック姿になっている。

「やあ、ヘンリエッタ嬢。一杯どう?」

とワインを差し出され、ヘンリエッタは、どうしてだろう急にどきどきした。

アシュレイの洗いたての黒髪はしっとりして、石鹼の香りがした。リカルドの香水臭さとは大違いだった。

ぎくしゃくとソファに腰かけ、向かいのソファからお酌をしてもらう。なにもかも初めても経験で、ヘンリエッタはもうわからない。

「君は俺の客人ということにしておいたから。いつまでもいていいんだよ」

「助かりますわ。行く当てのない身でしたから……」

「はは。昨日までの公爵令嬢が、そんなことになるのがおかしいんだよ」

「すみません」

「君に言っているのじゃない。あのいびつなスロトリア国の在り方について、苦情を言っているのさ」

彼は考え込むようにグラスを回す。その大きな身体が発する熱か、それともヘンリエッタ自身の心臓が産む熱か。酔いが回ったのだとヘンリエッタは思う。だって、熱といえばそれしか知らないもの。

巨大なシャンデリアの灯りがアシュレイのまっすぐな額の線を照らしていた。

「――【裂け目】から魔物が溢れる【大災厄】を乗り越えることができれば、君の魔物だけを注目し、それを殺すことだけが生きがいだと感じる性質も、変化する可能性があるのだそうだ」

「えっ。なんですって?」

まったく信じられないことを、彼は言った。

「婚約破棄だなんて。あんなひどいことをされても、君、少しも怒っていないだろう?」

「ええ、まあ……」

「王太子にも、公爵家の親たちにも、何も思わない。そうだろう?」

「ええ……」

ヘンリエッタは苦しかった。まるでひとつずつ、彼女の普通ではないところを突きつけられているようで。

「もしそれを変えることができるなら、俺はこれまで以上に身を入れて戦わないとな」

「え?」

アシュレイはワインをごくりと飲み込むと、素早く立ち上がり、ヘンリエッタに跪く。荒野でされたのと同じ動作、同じ顔、なのにどうして彼女はどぎまぎしているのだろう?

「これまでは王太子の役目だからとひたすら魔物を狩っていた。だが今はもう、違う。君のためだという目標ができたから。俺は心から誓うよ、ヘンリエッタ嬢――我が心のヘンリエッタ。君のために俺は戦う。そして君の心が解放されたとき、俺は君に求婚しよう」

「きゅ、きゅうこん」

「君に受け入れてもらえるように、これから俺のことをいっぱい知ってもらえるように頑張るよ」

「ひ、ひええええ」

ヘンリエッタは目を回し、へたへたとクッションに倒れ込むのだった。




アルヴェスタ国では荒野の見回りも、訓練も、すべて騎士団の仕事だった。ヘンリエッタは新しい鎧と武具を与えられ、王立騎士団の一員として出迎えてもらった。

そこで彼女は知った。集団の外ではなく、中にいることの喜びと安心感を。騎士団を率いるアシュレイの判断は的確で、素晴らしく早い反応速度を持つ騎士たちはその手足のようになって働く。その波の中で自分の持てる力をすべて発揮できる、そして結果を褒めてもらえる、この胸の高鳴りは――いったい、何と呼べばいい?

「嬉しい、というんだよ」

とアシュレイは笑う。

「嬉しい。……ええ、そうだわ。わたくし、嬉しいんですわ、アシュレイ様!」

騎士団は居心地がよく、ヘンリエッタは笑顔を覚えた。

病弱な国王夫妻はヘンリエッタを実の娘のように扱ってくれた。

民たちは【魔物殺し令嬢】を大歓迎したが、それはどうやら彼女が祖国を捨ててアシュレイについてくるほどの恋に落ちたからだと思っているようで、誤解を解くのにヘンリエッタは苦労した。

あっという間に十年が過ぎた頃には、彼女は恋を理解できるようになっていた。相手はもちろん、アシュレイだった。

そして【裂け目】が開き、魔物たちが荒野に、そして地表に溢れる【大災厄】が始まる。スロトリア国の初代国王は、単身【裂け目】の中に侵入し、魔物たちが暴走する原因である魔石を砕くことに成功した功績で国王となった。ならば、その生まれ変わりだというヘンリエッタにできないはずはない。彼女は信じているし、

「俺が背後を守るから。君は君のすべきことを、間違いなくしてくれ」

と頷く、十年間のうちにかけがえのない相棒となったアシュレイがいてくれるから、何も怖くない。

「アシュレイ。あの、わたくし、すべて終わったら言いたいことがあるのです」

「奇遇だな。俺もだよ。内容もたぶん、同じこと」

二人はコツンと額を合わせ、照れ臭く笑い合う。騎士たちはピーピー口笛を吹き、民たちも涙を流しながら花を巻いて笑う。盛大な出立式のあと、その遠征は始まった。




ヘンリエッタとアシュレイは力を合わせて【大災厄】を乗り切り、【裂け目】を封印した。

二人はさまざまなものを失いながらも笑顔でアルヴェスタ国に戻り、結婚式を挙げた。


一方、スロトリア国は何もかもがダメダメで、有能だった国王が病に倒れてからは騎士団の再編成さえ間に合わず、魔物の波に国を蹂躙された。

民に罪はないと考えるヘンリエッタは、一瞬、助けに行くべきが迷った。だが自分が祖国のために倒れてしまえば、他ならぬアシュレイが【裂け目】に向かうことになってしまう。それに、十年の間温かく過ごしたアルヴェスタ国の方が、今となっては祖国スロトリア国より大事だった。彼女はすべてを背負う覚悟で、【裂け目】の攻略を急いだ。


スロトリア国の新王リカルドと王妃ルチア? ええと、どうなったんだっけ……。

記録に残っていないのでその正確な最期を知ることはできないのだが、臣下に裏切られて後ろから刺されただとか、民に恨まれ火炙りにされて死んだとか、ロクな末路ではなかったようだ。

かろうじて生き残ったスロトリア国の民たちは【大災厄】を終えて平和になった荒野を渡り、アルヴェスタ国を目指し、そこで新しい民として受け入れられたという。だからスロトリア国の文化や歴史や言語などもほとんど残っていない。

アルヴェスタ国中興の祖として知られるアシュレイ王の妻ヘンリエッタ正妃も、あまり祖国のことは語らなかったようである。

それにしてもどうしてヘンリエッタほどの人をスロトリア国は手放したのか? 彼女が祖国に残ってさえいれば、少なくともスロトリア国は存続していただろうに。

すべては黙して語らぬ、歴史の闇に葬られたお話の一部である。

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魔物殺し令嬢、婚約破棄されたので荒野に出たら隣国の王太子に拾われました 重田いの @omitani

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