【停止中】これから二度目のさよならをします。 

奥谷ゆずこ

プロローグ 『小田川チヒロは夢を見る』

 小田川チヒロは時折夢を見る。今から数年前の東京の地。小田川財閥。財閥と言っても、パッとしない財閥だ。その小田川財閥の、期待されることもない気ままな三男坊。誰もが羨む豪邸の、花が咲き誇るかぐわしい香りに包まれた心地よい中庭。彼は付き人のトウコにこう呼びかける。ねえ、トーちゃん。


 すると彼女は無愛想な顔に少し笑みを浮かべてはあい、と返事をする。それがたまらなく愛おしい。「今日も愛しているよ」と薄っぺらい何万回目かの告白をする。トウコがはあ、とそれをため息で吹き飛ばす。ため息で一世一代の告白を飛ばすと、小さく笑いかけてくる。幾度も繰り返されたそれは、恒例の儀式と化していた。やらない日があろうものなら落ち着かない。けれど、それも心地よいくらいだった。


 チヒロはトウコを好いていた。これから先、共にいるならトウコがいいと心の底から思っていた。けれど彼女は身分の差を理由にして、一緒になることは望まなかった。けれども愛を拒んだことはなかった。その距離感もまた心地よかった。チヒロが望むものではなかったが、それでもよかった。トウコがそばで笑っているのがたまらなく嬉しかったのだ。この日々を過ごせることを、神や仏に感謝していた。


 夢は悪夢に変わる。燃える屋敷。焼け落ちる花、壁紙、屋根。空襲だ。トーちゃん、トーちゃん。そういつもの呼び方で、いつもでは考えられないほど一生懸命に叫んだ。トウコは、炎の手前にいた。仲の良い同僚の体を支えて、必死に歩く。チヒロに気がつくと、最後の踏ん張りだという様子で歯を食いしばる。血だらけの足を動かす。彼女の細く日に焼けた足は見るのもできないくらいに痛々しく、傘を杖にしていないと歩けないようだった。いつもチヒロにトウコがさしてくれる日傘は、今や心細い支えになっていて、嫌な赤色で濡れていた。あと少しよ、とトウコが同僚に声をかける。


 音。大きな音。それが耳をつんざいた。トウコは同僚に突き飛ばされた。シャンデリアとともに天井が落下してくる。同僚の胴に当たった。うめき声。地獄の沙汰だった。神も仏もなかった。トウコが放り出され床に叩きつけられる。トウコと、トウコの仲良しの同僚、どちらに駆け寄るか迷ってしまった。ハッとして、胴を強く打った方に手を伸ばす。チヅエならその選択をする。


 視界の隅でトウコが起き上がるのが見えた。トウコの同僚は叫ぶ。もうこの足は使い物になりません、早く、お願いだから早くお逃げください。


 諦めきれないチヒロは同僚をなんとか立たせようとする。腰に触れたとき、ぎゃあと彼女は叫んだ。手遅れだった。遠くから悲鳴が聞こえる。頭がすかすかになってしまったみたいで、どうにも働かない。脳に穴が開いて、空気が入ってきたみたいだった。


 トウコちゃん、逃げて。あなたは逃げて。その言葉に、トウコが初めて不安を顔に出した。同僚はチヒロの袖を引っ張る。お二人は生きて。その一言が、チヒロの脳を動かした。トウコの腕を肩に回し支える。トウコも日傘で自身の体を支えようとしていた。二人とも必死だった。


 やがて天井は完全に崩れ胴を打った彼女の逃げる術はなくなった。トウコの涙をぬぐえなかったのを鮮明に記憶している。悪夢は際限なく体を侵食する。終わったはずなのに。


「チヒロ様、お目覚めになってください」

「ああ、トーちゃん」


 夢も悪夢もすべてが終わった。チヒロは起き上がる。三つ連ねた椅子の上。腰が痛い。


「トーちゃん、トーちゃんとお呼びになるのは結構ですけれど、私はお父さんではありません」

「ごめんね、でも可愛らしいあだ名だと思うんだけどなあ」

「そんなことより、今日は門出でございますよ」

「おいしいものでも食べようか」


 トウコは荷物を運びながら微笑む。この微笑みには、少々怒りの気持ちがあるのをチヒロは知っている。だから微笑み返す。そういえば、寝入っていてトウコの手伝いをしていない。疲れていたというのは、理由にならない。


「まだねぼけていらっしゃるのですか、社長様」


今、終戦から数年がたった。財閥はなくなった。チヒロは何者でもなくなった。日本が変わった。


岐阜の地。新岐阜駅の近く。チヒロ達はここで二人、これから遺品整理の店を開業する。

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