3
驚くほど見覚えのある日が訪れた。一日、二日。二日間ハンナの行動を観察して、信じられないことだが時間が巻き戻っている。そうとしか説明がつかないかった。
「おにぃちゃん」
ハンナの呼び声がリビングからする。
香水瓶が机の上に一つ。香事だ。
「今日の匂いはね、自然よ」
やっぱりそうか。
ハンナ蓋を押し込むとシュッと液体が霧のように散って、目を閉じれば森の中にいるような錯覚さえする、リラックスすると口まで軽くなった。
「明日は本物の匂いを嗅ぎにいかないか、西の方向の森だ。池からあっち側の」
「そう、言おう言おうと思ってたんだけど、おにぃちゃん」ハンナは一度言い淀んで顔を下に向けた。顔に陰影がくっきりと浮き出た。「おにぃちゃんが狭間の世界に居た時、こっちの世界では、皇帝が殺されてしまったの……だから気をつけたいの」
「それくらい大丈夫じゃないか、気負いすぎだよ」
寧ろここにいる方が危険なのに、と歯痒い。いっその事全てをバラしてしまおうかとすら思ったが、そんなことをしては、変な奴として寧ろ西の森に行きにくくなると思い、言っていなかった。
香事が終わって、自室で明日の準備を始めた。家にすぐ戻れないかもしれないし、役に立ちそうなものはできるだけ持って家を出たい。手頃な革製のアタッシュケースに使えそうなものを放り込んで行く。まずは、地図。今の場所すらわからないが。あとは望遠鏡、コンパス、自衛になるかわからないけど小さいナイフ、腕時計などを詰め込んでいく。
部屋を見回したら、家の外には霧が出ていて、獏の鼻が見えた。そうか、家の外で夜が訪れてしまったら、どうしようか。
いや、夜が来たら襲撃者もただじゃ済まない、民家に入るのか? それは一旦森の中から状況を見て、判断するまでわからないか。
カーテンを閉めて、灯りを消して、眠りにつく。そういえば刺される瞬間に見た二人組。あれは何だったんだろうか。
朝になって霧はやっぱり、無くなって、快晴。ピクニック日和だ。
「もう、朝早くから爽やかな森を楽しまないか?」
「旅人なだけあって、おにぃちゃん朝から結構アクティブだね」
旅人? 記憶を消す前はそうだったのか?
「まぁね」
齟齬が出ないように曖昧に返答しておく。確かに部屋にアタッシュケース、地図、コンパス、望遠鏡とどこにでもあるとは限らない物があった説明がつく。
町から緩やかな傾斜を上がった先にある西の森はは静かで、細かい水の粒子が肌に当たって心地良い。手で粒子を受けて、自分が球体関節人形であることを思い出した。風が吹き抜けて、森の木々の匂いが立体的に感じられる。なぜ球体関節人形なのだろうかと、思ったことがおかしい気がした。
森から振り返ると木と木の隙間から町や湖が見えた。今の時刻は……と、腕時計はアタッシュケースの中だ。できるだけ、街の方を観察したいからこそ、わざと入れた節はあるのだが。
「ちょっと待ってくれないかな、腕時計がアタッシュケースの中なんだ」
「いいよ」
ハンナの態度がひどく柔らかい気がする。そういえばこの家には親がいない。シモンは自分が旅に出ると一人になるから、今一人じゃなくて嬉しいのかもしれない。そう思うと急に愛おしい気がしてきた。
腕時計をはめて時刻を見る。9:21分。
「……ねぇ、あれ」
恐ろしい物を見たようなハンナの声と共に肩を叩かれる。彼女は町の方を指さしていた。町の方から粉塵が上がっているのが目視でわかる。馬と人が入り乱れているのが粉塵の隙間から垣間見える。アタッシュケースから今度は望遠鏡を取り出して町を見る。
機械仕掛けの馬に乗った兵士が住民を槍で刺している。
「兵士が槍で人々を刺してる……」
自分の推論は正しかったか。シモンは一人何かに勝ったような快感を覚えた。
望遠鏡をしまう。ハンナは動けていない。
「あの赤い印。東の君主よね」
ハンナが言っているのは、黒地に赤い龍の絵の書かれた旗のことだった。
東の君主と言われてもわからないシモンは、適当に、
「だろうね……奴らの目的がわからないからこそもっと森の奥に逃げよう」
シモンの提案に油を差していない機械みたいにハンナは頷く。シモンが手を取ってやって、ゆっくり森の奥に進む。
しばらく森を進むと、小さなログハウスが現れた。
「少なくとも今夜はあのログハウスで過ごそう」
襲撃のショックから抜けた出せないハンナのために、肝が据わった演技をしてみせた。
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