実直な少年
水汲み自体は特に問題なく終えることができた。あの女とはまた口論になりそうになったが、アシェンが強気な態度を崩さないことがわかるとそれ以上は何も言えないようだった。
それから幾つかの雑用を片付けているうちに、いつの間にか日が傾いてくる。
このぐらいの時間になると、男達が帰ってくる。家族がある者達はささやかな食卓を囲むのだが、生憎とアシェンにはそんな家族はいない。
ただ食事だけは、エリンの家に世話になっているのだ。エリンがアシェンを何かと気に掛けるのは、その辺りの理由もあるのだろう。
夕闇に染まる奴隷地区、その道の端を歩いていると、二つの大きな影がアシェンの行く手を阻んできた。
「おい、灰色」
この数日でわかったことだが、アシェンに対してそう呼んでくる相手は碌な連中ではない。呆れた顔で見上げると、嫌な笑いを浮かべながらこちらを見下ろす男が二人。
「俺達は今、労働帰りで喉が渇いてるんだ。わかるな?」
ニヤニヤと笑いながら、そう口にする。
恐らくは、以前のアシェンは彼等に言われるままに水を持ってきていたのだろう。そうやって彼女を扱き使って、今自分達が奴隷として働かされているという事実から目を背けているというわけだ。
「ん、ああ。ドルクの店が今から開くだろうから、水でも持ってくればいい」
ドルクの店というのは、この辺りで唯一の酒場だ。ここを取り仕切る貴族達から許可を得て、奴隷達の娯楽として安酒を提供している。
「あん?」
アシェンのその答えに、男達は不満があるようだった。
それは当然で、これまではそういわれれば一目散に店に向かって走っていくような少女だったのだろう。
「お前が持って来いって言ってるんだよ? 灰色!」
怒鳴りつけながら、男の一人が腕を振り上げる。
頬の一つでも叩く振りをすれば言うことを聞かせられると思っていたのだろうが、『今』のアシェンはそんなことに動じるような性格ではない。
「力で私を従えるつもりか?」
逆光によって、アシェンの金色の瞳は男達にとっては妙に輝いて見えたことだろう。
そのこれまでとは全く違う迫力に押し留められて、腕を振り上げた男は一瞬その動きを止めることしかできなかった。
しかし、彼等にも妙なプライドがある。それはこの奴隷地区の中でも、自分より下の階級の者がいるというちんけなものだ。
たったそれだけのことを守るために、男はそのまま掲げた手をアシェンの頬目掛けて振り下ろした。
アシェンはそれを掴むと、そのまま目にもとまらぬ速さで引っ張り込み、態勢を崩した男の足を払う。
男は派手に尻餅をつき、そのまま目を白黒させていた。
「てめぇ! 何を……!」
そのままアシェンに掴みかかろうとするもう一人の男だが、軽く身体を動かすだけで全くその動きを捉えることはできず、伸ばした腕が何度も空を切る。
アシェンが反撃に転じようとしたタイミングで、少し離れたところから鋭い声が飛んだ。
「何をやってる!」
まだ年若い、少年の声だがはっきりと耳に響く。
この奴隷地区の中では珍しく、目の前にいる情けない大人達よりもよほど頼りがいがあるとすら思える声だった。
「げっ、カイ……!」
倒された男が起き上がりながら、バツが悪そうにその名を呼ぶ。
茶色の短髪に、幼さを残しながらも精悍さが滲む顔立ち。
少年の名前はカイ。アシェンも、彼とは面識があった。
「またアシェンに絡んでいるのか!」
カイがそう怒鳴ると、男達は委縮する。体格だけでいえばカイよりも圧倒的に勝っているにも関わらず、彼等は逆らうことができないようだった。
「いや、これは……」
「俺達疲れててよ……。ちょっと水を取ってきてもらいたかったんだが」
「疲れているのはみんな一緒だ! そのぐらいのことは自分でやれ!」
「……いや、まぁ……」
「冗談のつもりだったんだよ、本当に灰……アシェンが本気に受け取るからよ」
苦笑いを浮かべつつ、男達は後ずさる。
そのままカイとの距離が離れると、背を向けて走り去っていった。
「まったく」
カイは彼等が去っていった方向を見ながら、溜息をつく。
「あんまりエリンに心配を掛けるんじゃないぞ」
「そんなつもりはなかったのだがな」
カイはエリンの兄だ。エリンとは血が繋がっていないが、彼の両親がエリンの面倒を見ていることからそういうことになっている。
そういう理由から、アシェンとも面識はある。
彼もまた、アシェンに対して差別的な態度を取らない数少ない人物の一人だった。そしてアシェンは、そんな真っ直ぐなカイの人柄を結構気に入っている。
「それにしてもお前、なんか雰囲気変わったか?」
「そうか? 女の成長は早いと聞くし、そういうものだろう」
「ふーん、そういうもんか」
これで誤魔化せてしまう簡単さも、気に入っている点の一つだ。
「……なぁ、アシェン」
「どうした?」
二人で並んで帰路につくと、不意にカイが声をかけてくる。
これまで簡単な会話しかしたことがなかったから、少しだけ戸惑いながら返事をする。
「辛くないか?」
「別に。所詮はぼんくらが喚いているだけに過ぎんからな」
「……隠さなくてもいいさ。お前が陰で泣いてることは知ってる」
それは以前のアシェンのことだろう。
「……あんまり詳しくは言えないけど、上手くいけばもう我慢しなくてもよくなるかも知れないからさ」
「……どういうことだ?」
その言葉が気になって、カイに尋ね返す。
まだほんの数日しかここにはいないアシェンだが、それでも彼の言葉が真実とは思えなかった。
ここ奴隷地区に連れてこられた者達は武器になるようなものは取り上げられ、労働をするだけの必要最低限の生活だけが与えられている。
ここに暮らす間に身体は弱り、それに伴って心も無気力になっていく。
そんな状況を打開する方法が、少なくとも多少なりとも活力があれど所詮一人の少年に過ぎないカイにあるとは思えなかった。
「いや、だから詳しくは言えないって。でも上手くいけば状況は良くなるはずなんだ」
真っ直ぐに何かを信じたような目で、カイがそう告げる。
そこに少年の素直さと、危うさを覚えながらアシェンは目線を逸らした。
「精々、期待しておく」
「ああ! お前にも、何よりエリンにももう不幸が降りかからないようにしてやるから!」
夕闇の中に響くその言葉は、確かな希望に溢れたものだった。
同時に内包された危うさには、少年は決して気付くことはない。
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