第二章 夕焼け色の花が秋空を彩る頃の話

第6話 花笑む夜明け


 ようやく誰に聞いても「秋だ」と言われるくらい、秋らしい寒さ、景色になってきた。


 未練がましい残暑は北風がどうにか機嫌をとりなしてくれて、入道雲が息巻いていた夏の空は、澄み冴えわたった秋空へといつの間にかお色直しをしてきたらしい。


 季節が移ろっていくのを感じられるのは勿論私が通う大学も例外でなく、門の側にある金木犀の木もその小さな花を精一杯咲かせている。ここに通い始めて3年、三度目の秋だけど、この金木犀の香りは色褪せることを知らない。毎年、その年一番の馥郁が秋の訪れを知らせてくれる。


 大抵の物事の始まりは春だが、私にとって「私」のはじまりは秋だ。


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 音楽が好きだった。

 黒と白だけで描かれた世界が、音といういろを帯びて私の心を染めていく感覚。

 鮮やかな声音を震わせ、どんな小さい舞台もその歌い手の彩で恍惚とした空間に変わる。


 ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、ハープ、マリンバ…

 弾ける、弾きたい楽器を数えたら、少なくとも両手では足りない。


 私が音楽を好きになったきっかけは、ある歌手だった。

 透き通るような声に、のびやかなビブラート。他の歌手とはどこか一線を画す溢れ出ていた才能を、幼いながらに感じ取ったのを憶えている。


 秋に、その人が出演したコンサートで、私は運よくその歌手とのデュエットをするチャンスを得た。ピアノを習い始めて数年の年長さんが弾くつたない伴奏に合わせ、彼女は演目の時と同じように、手を抜くことなく歌ってくれた。


 本当に、綺麗だった。


 大学生となった今もなお、あの時の気持ちはそう率直に言うことしかできない。

 語彙力の問題じゃない。どんな比喩を交えても、演目の時とは別の、儚さに近い美しさを表現することはできない気がした。


 「あの!またわたしと…いっしょにえんそうしてくれますか!?」

 

 夢中になっていた私は彼女に約束をせがんでいた。

 一瞬きょとんとした彼女は、やがて桜が花笑むように微笑んだ。


 「もちろんよ。今度は私と、貴女と…そうね、私の息子も一緒に、みんなで演奏しましょう」


 その言葉のために、私は努力を惜しまなかった。親もたくさん支えてくれて、約束を必ず果たすんだと意気込んでいた。


 いつかあの人のいろが存分に映えるような伴奏キャンバスになってみせる。それが中学3年生までの私の夢だった。





 「……今、なんて、」

 「…亡くなられていたんだ。……あのコンサートの翌日に」


 父は俯いたまま、それ以上言葉を口にしなかった。

 中学3年、進路について話し合っている時のこと。あの頃から変わらない想いを父に語ると、父の表情がそれまで淡々とした表情から苦しげなものに変わった。

 訝しんだ私に、父は極めて慎重に、私の情を煽らないよう、娘の憧れは本当に儚い存在になってしまったことを告げた。


 あの約束の翌日、彼女は別の場所で公演があった。その公演の後、彼女は楽屋で他殺体として見つかったらしい。マネージャーも席を外していた時に起きた惨事で、警察は事件と同時期に行方不明になった彼女の夫を容疑者として捜索するも未だに見つかっていないという状態だった。


 「何で…すぐに、言わなかったの?私、その人のことだけをずっと追いかけて、目標にしてきたのに…ずっと、あの約束のために頑張ってきたのに!」


 父の配慮も虚しく、私は激しく父を責めた。

 父は俯いたまま、やはり何も言わなかった。


 私は勉強が人並みにできても特段ずば抜けてできるわけじゃなかったから、あの約束ができてからずっと、私は音楽にしがみついてきた。その大きな柱を失った私は、いつのまにか自分の音楽に意味を見いだせなくなった。

 画家をしていた父親の血は私にもそれなりに濃く流れていたらしく、私は絵描きに打ち込むようになった。油絵が自分にはお誂え向きだと分かると、大学もその方向にした。


 彼女の歌声を、キャンバスに映したいと思った。


 本当は、油彩よりも水彩がよかった。

 本当は、ずっと音楽がよかった。

 本当は、もっと父と話すべきだった。

 自分のせいだってことくらい解ってる。

 紛れもない自分の手で、ちぐはぐな未来ばかり、選んでしまった。

 でもそれ抜きにしたって、神様は意地悪だと思う。


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 「芹澤さん…大丈夫?」


 いつの間にか下へ落ちていた視線を前に戻すと、教官が不安げな顔で此方を見つめている。彼女は1年の頃からお世話になっている教官で、私の絵を恐らくこの学校で一番好きでいてくれている人でもある。

 私は笑みを作って教官に向き合う。


 「…大丈夫です。あの、話って」


 教官はいかにも「そうそう!」という顔をして、ぽんと手を合わせた。


 「そうそう、貴女にお願いした画、今どんな風になっているのかしらと思って。を描いた貴女だから特に心配はしていないけど…楽しみにしているわ。それで、展示場所とか、運ぶのに必要なものとかがあれば、此方で大方準備するから、遠慮せず言ってちょうだいねってことを伝えたかったの」

 「ありがとう、ございます」


 今のところ特に問題はない旨を伝え、にこやかに手を振って去っていく教官を見送る。


 私、芹澤燈は、文化祭でスローガンに因んだ絵を書いてほしいと頼まれていた。

 頼まれたのは今年の春で、私が去年描いた油彩の大作の出来栄えを見込まれてのこと。

 今回も勿論油彩での依頼だった。



 でも私は自分が描いた油彩が嫌い。

 どんなに繊細な色を作って、構図を上手くとっても、あの声を描くことができない。

 忘れるはずもないのに、キャンバスの前に立つと途端に何も描けなくなってしまう。

 そのくせ他のものはそつなく描けるのに、肝心な感情がのることはない。


 そんな画でも「上手い」とか、「叙情的」とか称賛してくれる教官や同級生に、いつもどこか申し訳ない気持ちと、微かな疎外感と、ほのかな哀れみを抱いてしまう。




 「…お、芹澤じゃん。どしたの、そんな浮かない顔して」


 文化祭の画を仕上げに作業部屋へ向かっていると、向こうから飄々とした声がかかる。閉じた扇子を片手に和服姿。キツネを想起させる糸目に、鼻筋の通った顔。

 うちの科では「顔の良さに絵の腕もちゃんと伴っている絵師」日本画部門という謎の括りで第一位を飾る男である。


 園田光喜みつき。中学からの同級生であり、何かと事あるごとに気づいたら助けてもらっている。


 「もともとこういう顔ですよーだ。…園田こそ、此処で何してるの」

 「そんな言い方ないだろ?文化祭で大役を任されてる誰かさんのために差し入れ持ってきたっていうのに…いないなら帰って俺が食べちゃおうかと思って」


 後半からにやけながら、彼は手に下げていたビニール袋から薄紅色の包装のスイーツをちらつかせる。水彩タッチのリアルな桃のイラストが垣間見えたそれは、間違いなくちょっと豪華な部類に入るやつだった。

 私の喉がごくりと鳴る。彼の手元に目が釘付けになってしまう。


 「それ、まさか…」

 「あ〜あ、昼飯買いに出てみたら見つけたんだけどなぁ…、お前の好きな桃のスイーツだったから差し入れてあげようと思ったんだけどなぁ…はぁ、そんなに邪険に扱われるんだったら、差し入れすら邪魔か…」

 「ください!いただきます!美味しくいただかせてもらいます!ありがとうございます!!」


 立ち去ろうとした彼の手を、思わずがっしりと掴む。必死になりすぎてビニール袋だけでも引き剥がそうとすると、こつん、と扇子の先で頭をこづかれた。


 「ばーか、俺の昼飯も入ってるっつーの。ちゃんとやるから離せよ…ほら」

 「…ありがと」


 部屋へ入り、座って躊躇なくスイーツの包装を破ると、ふんわりと桃の香りが鼻を抜ける。思い切りかじった一口は、瑞々しい桃の甘みがぎゅっと詰まっていた。


 園田は私の勢いに苦笑しながらも椅子を寄せて私の向かいに座り、自分の昼食を食べ始める。彼が広げた昼食は、ハムとレタス、ハムと卵のサンドイッチに紅茶のペットボトル。彼は日本画専攻、和装という所からお察しの通り日本LOVEな人間だが、食文化は洋食の方が好きだという可笑しなところもあるのだ。

 そういう点は初めて会った時から変わらないので、私は特に気にすることなく自分のスイーツを堪能する。本当に…美味しい。後で彼に買った店を聞き出しておこう。


 「ん〜、幸せ…やっぱり桃しか勝たん」


 もくもくと至福に浸る私を、急に真顔になった園田が開眼状態で見てくる。食べる手を止めてまで私のことを見るので、流石に気になった私は怪訝な表情を返した。


 「…ほうかひはどうかした?」


 はぁ…と解りやすいため息を一つ吐いて、彼は癖っ毛の頭をわしゃわしゃと掻いた。


 「…その調子だと、最近うまくいってないな?」

 「ほんなふぉほはそんなことはふぁいないふぉおもふへほとおもうけど


 私はたまらず彼から目を逸らしたが、園田は黙って此方を見据えたままでいる。


 「やっぱり油絵は気が進まないんだろ」


 最後の一口を平然と頬張る。ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。香りの余韻に浸ると、僅かに胸がすく心地がした。でも今は彼の視線のおかげで、その悦楽は半減している。


 「気が進まないも何も……とにかく、描けないわけじゃないから。私が一番上手いのは油彩なのは事実だし、私の腕を見込んで、先生も依頼してくれたわけだし」

 「芹澤が納得いかないもの描いたって、そんなの何もお前の得にならないじゃん」


 痛いところを突かれる。


 確かにこの画を描いている間、楽しいと思ったことはあまりない。…でも、頼まれたからには描かなければいけない。

 どんなに自分が納得いかなくたって、見る側が「上手だ」と思えばそれ以上にもそれ以下にもならない。それが私の画に与えられた最も客観的な評価で、私が描いた過程で何があったのかも、何を考えながら描いたのかも、そういったには一切スポットは当たらない。見る人それぞれの頭の中で、各々の画にまつわるが生まれるだけ。


 「…私の得なんて、考えようとするほうがおかしいでしょ。見る人は私の絵を私の分身として見てくれるわけじゃない。見る人は『私の画』じゃなくて『一つの誰かの作品』として、それぞれの価値観で鑑賞するの。私が『こういうことを表したかったんです』って言った所で、それは単なる芸術家の独りよがりだよ」


 ゆっくりと話しているつもりはなかったが、彼が食べるスピードが早いのか、私が言い終える頃には彼のハムと卵のサンドイッチはなくなっていた。

 紅茶のペットボトルをくい、と傾け、彼の喉仏がくつり、と鳴った。


 「俺は…評価のされ方じゃなくて、評価される前のお前の気持ちの話をしてんの。お前が描きたいもの描ければ、誰がどう評価しようとどうだって良い…だろ?まあ、あくまで俺の主観だからさ。何にせよ芹澤の自由だし、教官に頼まれたことは仕上げなきゃいけないのも確かだし」


 まあ、頑張れ。そういって和服の狐男は飄々と去っていった。


 窓の外を見ると、金木犀の花が慎ましやかな姿を魅せている。


 和やかな景色と裏腹に何故か私の頭の中で流れていたのは、数日前に知り合ったばかりの「芸術家」の姿と、いつか聴いた痛くて苦しく心地よい旋律だった。

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